歌舞伎町ロボットレストランに行って来ました

 今回は趣向を変えて、ロボットレストランです。今年の春だかそのくらいに開店したばかりのお店ですが、新宿界隈でなんだかあやしげな巨大ロボットを積んだトラックを走らせ、やたら派手な宣伝をしていたので、ご存じの方も多いでしょう。


 歌舞伎町、靖国通りからさくら通りに入ってすぐ右側の、「新宿ロボットビル」の地下二階です。その一角だけ、なんだかすごいことになっているので、近くに行けばすぐわかります。なんというか、一言で言うと、「熱海とラスベガスを足して3をかけた場所」という感じ。あの場末感、無駄な電飾の派手さ、出される食べ物のチープさ、そういったものが、ぼくにそう感じさせました。これはすごい。これで4000円(開店当初から、1000円値上げされました)は、やはりお買い得でしょう。

 我々が行ったのは20時半からの回。事前にメシがしょぼいという情報も入っていたので、軽くバッティングセンターに寄ってから、銀だこでたこ焼きなど食い、19時半くらいに現地着。待合室は外からも丸見えですが、まあこんなロボット(写真↓)が置いてあってビカビカしてますよ、と。



いやまったくこのロボットどうなっているのかと、右から左から、下から覗き込みまくると、ブレーカーを発見。なんと125Aのブレーカー! 普通の家庭用ブレーカーのアンペア数は30、40Aくらいです。なんという大電流。電気食いまくるのも納得。股間部には謎のタンクがついており、おそらくこれは制動のための圧縮空気か何かではなかろうか。また室内天井の各所、しかも明らかにはしごでも持ってこないと手に取れない場所に、マイクのソケットが。なぞが深まる。


 そうこうしていると、「地下二階の会場は狭いため、荷物、上着などは備え付けのロッカーへお願いします」というアナウンス。先に料金を支払い、ロッカーに荷物を預けてから、いざ地下二階へ。

 地下二階は奥行き50mくらい、幅が10mほどの部屋。その10mのうち、中央の5mくらいがショー部分、両脇は三段の階段状になっており、そこに約100席程度の観客席が設けられています。席は下が固定された回転椅子に、シネコンでたくさんものを頼んだときに貸してもらえる、ドリンクホルダーに付けるテーブルがセットされています。そこに350mlペットのお茶と、小さな幕の内弁当。たこ焼き食べてきてよかったです。


 このロボットレストラン、店名のサブタイトル的なところに「女戦」とあり、なんか戦争とかそういうものがテーマらしく、戦国時代→神輿担いで祭→19世紀くらいの軍楽隊→ロボット→さらにロボット→電飾戦車&爆撃機と、、たしか7ステージくらいあった気がする。それぞれ5分くらいだったかな。しかしダンサーの数の多いこと! 20人はいたかな。20人ものおねーちゃんが半裸で踊っているのを見るのも初めての体験で、これはこれで楽しかった(笑)。そして20人もの半裸を見ると、ほんとに人間の体の個体差というものを感じられるのも、ひとつ発見。おしりなんて特に、そこまで個体差が出るところだと思っていなかったので、なかなか興味深く見つめてしまった。いいですね、おしり。かつて大槻ケンヂが「ゴダールの映画において素晴らしい点は、アンナ・カリーナのおしりだ」といっていたことをなんとなく思い出したりしていました。
 戦国時代、それに軍楽隊のパートではダンス+太鼓・ドラムの演奏という形なのだけど、絶妙に下手くそなのも愛らしい。もちろん上手い人もいる。しかし、一日に3ステージだか4ステージ、ほぼ毎日やっているこのレストラン、各々が毎日出演していないとしても、それなりに数はこなしているはずなのに、この下手くそさは何なのだろう。いや別に音楽が云々とかそういうステージじゃないのでいいんですけど。たくさんの女の子が可愛く笑顔で踊っているので、もうそれで十分です。

 で、ロボット。肝心なロボットです。このやたらピカピカしているロボットは、値上げ前にはいなかったロボット、ロボタくんです。わりと器用に動きます(中に人が入っているであろうことは公然の秘密だ)。このロボタくんとはjavascript:;記念撮影が出来たり色々するのですが、それよりもロボタくんと一緒に出てきたおねーちゃんの衣装と乗り物が、ちょーいかしてました。


 ね、これいいでしょう。セグウェイの偽物みたいな乗り物に乗って、ロボタくんの周りを軽快に走り回っています。この「トロン」じみた感じは、実は全編を通して一番グッと来ました。


そして待合室にも飾ってあったり、あちこちで宣伝されて回っている、例の巨大女性型ロボの出番がこのあと。そう、これです。
 もうこの辺まで来ると、どうにでもしてくれという、けっこうやけっぱちな感じすら、自分の中に湧いてきます。まあやけっぱちになったからといって、なにがどうなるというわけでもありません。しかしこれ、さっきのロボタくんのパートではおねーちゃんがセグウェイの偽物に乗って走り回ってくれたおかげで、それなりに見物感は出たのですが、こっちはこの巨大ロボが六台も出動してしまうので、ほかに何かできるスペースもなく、ひたすら緩慢にロボが動くのみ。いや実際に見るとロボすげー!!! となるのですが、あとから思い返すと、ほんとにすごかったのだろううかとかいろいろ考えてしまいます。現場の空気感って大事ですね。



 最後は、電飾戦車と電飾爆撃機+電飾バイクと電飾バギーでもう目がチカチカしっぱなしです。おねーちゃんたちは、各々戦車やらなにやらに乗りつつ、さらに天井にループ状に設置されているレールをグルグルまわる電飾付き椅子的なものに乗って、客席上空を漂っています。すごいです。おしりがもない、すごい何かです。


これがたぶん、世界がステロタイプの日本に求めい。バギーはキャタピラ付きで、バリバリとエンジンをうならせながら、軽油の匂いを残しつつ走り回るし、バイクもなんかすごいし、もはやいろんなものがなんだかよくわかりません。この狂躁感がステキすぎます。現実感の欠片ている快楽性なのだろうとか、そんなこと考える余地も与えませ近ん。わーすげー、と、目の前のビカビカした乗り物とおねーちゃんたちを、ただただ見つめるのみです。


 これ考えたひとは、ほんとうに狂っていると思います。すごいです。驚嘆します。いやほんとに楽しかった。
 あ、ちなみにお客さんの半分くらいは女性でした。なんか、すげーなと思いました。集客的な意味で。(かつとんたろう)

ロボットレストラン
http://www.shinjuku-robot.com/pc/top/

S.E.VOL4 いよいよAmazonで販売開始!

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S.E. [VOL4]

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いよいよ販売が開始されました! お値段おやすめ550円です。
ブログを読んで興味をもってくださった方、もしよろしければお買いもとめくださいヘ(^o^)/

  • 内容紹介

「文学」はじまるよ!

文学をテーマに、小説、評論、漫画と揃った一冊です。中学生、高校生から読めるスノッブな文芸雑誌の第四号、ここに見参!

ブックデザインも一新しました!

映像、ロゴ、デザイン、DTPなどで活躍するアーティスト集団「UNIT+」チームが本作のDTPを担当!
また、表紙はpixivを中心に活躍する新進気鋭のイラストレーター「オレンジ君」です。


【小 説】
文節マーカー、ハラハラ見た心境 高山羽根子

文学部のこと 宮内悠介

【評 論】

「本文」と格闘する――宮澤賢治童話の改稿をめぐるあれこれ 辺 陽介

認識論的批評試論 かつとんたろう

文学とは何か、とは何か 安倉儀たたた

【漫 画】

方程式 芥河圭一

【そのほか】

執筆者あいさつ

関連書籍紹介

編集後記

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密林社さんに委託したことをすっかり忘れて一年ちょっと。

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「入荷未定」となっていても問題なく購入できるとのことです。どうぞ、よろしく><

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文学とは何か、とは何か 安倉儀たたた

【漫 画】

方程式 芥河圭一

【そのほか】

執筆者あいさつ

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編集後記

野球美術と、ながさわたかひろの日常における芸術 

  • ながさわたかひろ展「プロ野球ぬりえ2012〜魔球の伝説〜」

 日米両国において、野球はもはやスポーツである以上の意味を持ってしまっている。殊、アメリカにおいて野球は、まさしくアメリカ固有のスポーツである、という意識の下に、アメリカ史と野球史とは分かちがたく結びついており、ひとつの独立した文化として「野球」がある、と言ってしまってもいいだろう。ゆえに、アメリカにおいて野球と美術(もちろん美術にかぎらず、文学などでもそうだ)は、ごく自然に出会い、さまざまな作品を生み出し続けている。


 過去の有名な作家であれば、ウォーホルは“Pete Rose”(1985年)を製作し、ラウシェンバーグも野球に関するコラージュ調のリトグラフ作品“Rank”(1964年) を残している。あるいはそこまで有名でなくとも、ほぼ野球の絵画をひとつのモダン・アート、コンテンポラリー・アートとして描き続ける作家もいる。例えば、ジェラルド・ガーストンという作家は、バットやストライプのユニフォームの直線性と、人間や野球帽の丸さを表情豊かにシンクロさせ、野球が円運動と直線運動によるスポーツであることを思い起こさせる作品を作り続けている。また作品単位で言えば、ミカエル・ランゲンシュタインの“Play Ball”(1982年)も素晴らしい。ミケランジェロの『天地創造』の中央部、アダムと神が手を触れ合わせる有名な部分を、神の手からアダムに野球のボールが手渡されるように、描き込みを加えたものだ。神から人間へと野球ボールが渡されるその様は、審判から投手へとボールが手渡される情景を想起させる。まさしく「プレイボール」そのものである。

 また、各種野球系コンベンションにおいて、アート関係のパネルが開催されていることも多い。今年の6月末に行われたアメリカ野球学会(SABR) の本大会においても野球と美術に関する分科会が設けられており、また7月の第三週末に行われたニグロ・リーグ・カンファレンスにおいてはアートコンテストが行われ、プロ部門、アマ部門、ユース部門の三賞が与えられた。プロ部門での受賞作品は、ダリル・シェルトンによる "Memories Locked Away in a Drawer"。ジョゼフ・コーネルのシャドウ・ボックスを思わせつつも、外箱を子どもが使うような古びた引き出しの形にし、中には注意深く、かのサチェル・ペイジの写真や、彼の背番号25が入った野球場の席を思わせるミニチュアの椅子などを配置することで、輝かしくも質素な、過去のニグロ・リーグを偲ばせる作品だ。


 前置きが長くなった。このようにアメリカでの美術と野球の結びつきは、かくも長く、深いものである。

 しかし日本ではどうだろうか。野球好きの美術愛好者が、美術作家として知られている作家が野球を意識して製作したものを、挙げることができるだろうか。イラストレーションや野球場のレリーフとして飾られているような作品以外で、つまり「野球」という場を離れて、権威づけられた「美術」という制度の中で評価されるような作品として、野球にまつわるものは、今まであっただろうか。昭和史における稀代のアイコンである長嶋茂雄を扱った作品の一つや二つ、あったとしても不思議ではないのに(アメリカでは、ベーブ・ルースに関する作品は山ほどある)、そういった類のものは、彼が豪快に三振をしたときの有名な写真以外(それすらも、「美術」の中で評価されているのを見たことがないのだが)、全くといっていいほど見当たらない。

 だからこそながさわたかひろは、そのようなアイコンこそ使わないものの、真に野球と美術の接点となろうとする作品の制作者として、日本における野球美術の嚆矢となるはずなのだ。


 ながさわたかひろ展「プロ野球ぬりえ2012〜魔球の伝説〜」で展示されている作品は、2012年の東京ヤクルトスワローズの公式戦全試合およびクライマックスシリーズ全試合(さらにはヤクルトが参加していないCS2ndステージ、日本シリーズも)を、ペン画として製作した作品群だ。試合の中での幾つかのポイントになった瞬間を選手の動きを中心に描き、それらを画面上に構成してゆく。構成は必ずしもきちんと時系列に読めるようにはなっていないが、試合の結果と流れをきちんと把握できるよう、巧みに組まれている。選手たちの野球の動きは力強く描かれ、ながさわの画力の高さが十分に伝わるものだ。そして、さらにこれらがアメリカの野球美術と比べても特異なのは、一瞬を切り取って一つの作品に仕上げていくだけではなく、一試合ごと(あるいは同チームとの一連戦)を一枚の版画、ペン画にしてゆき、それを「すべての試合」で行なっている、という点だ。

 ラウシェンバーグは自らの作品制作を、「芸術作品をつくることではなく、芸術と生活の橋渡しをすることだ」「芸術も生活も作ることはできない。われわれは、その間の、定義しようのない空隙で仕事をしなければならない」と述べている。 ながさわにとって、ほぼ毎日行われるプロ野球の試合とは、まさしく日常生活の一部であり、ヤクルトというチーム、一場靖弘という選手への愛情(ながさわは、一場が楽天からヤクルトへと移籍したときに、自身も「移籍」した!)によって、毎日を生きていく中で、大きなウェイトを占めるものにすらなっている。彼の作品はラウシェンバーグの言葉通り、ある種の制度の中のものとしての「美術」ではな く、「芸術」という本来的に定義できない曖昧なものと、彼の実際に生きるリアルな日常生活とにまたがり、その間を埋めるようにして制作されていると言えるはずだ。

 野球がアメリカにおいて、一番人気のアメフトを差し置いて未だに「National Pastime(国民的遊戯)」であり続けているのは、野球が長いシーズンの中でほぼ毎日行われている、ということと無関係ではないだろう。世の中には、夜のニュースにプロ野球の試合結果がないことで、やっと今日が月曜日であったことを確認する人も少なからずいるのだ。そのようにして日常生活に寄り添う「野球」という、ほぼ毎日行われるという点で他にあまり類を見ないスポーツを作品の中心とすること は、日常と芸術をつなぐのに最適な主題を選んだ、ということなのであり、そして現在、「日常としての野球」 を世界で最も端的に扱う美術作家こそ、ながさわたかひろなのだ。


 ながさわのこの作品群の制作が「日常」のものであることは、画面の上からも見て取れる。シーズン開幕当初は、去年までの流れを引き継いで(去年までは版画作品として制作されていた)色のついていないものだったが、4/17からの阪神三連戦からは色がつくようになっている。去年は版画、今年はペン画と、違うことをやっているのだから、という意識もあったのだろうが、ここがやはりひとつの転機だったのだろう。その直後からは、ヤクルトも引き分けをひとつ挟んでの六連勝、ながさわの絵にも勢いが見え、ヤクルトの選手が画面で占める割合が、心なしか大きく見えすらする。また交流戦に入っての5月半ばから、ヤクルトが極端に調子を落とし、12戦連続で勝ちがつかない事態にまで陥ったときは、画面に描かれる選手たちの数が極端に減り、左右に多少の空白を設けた、見様によってはスタイリッシュともとれるような構成になっている。しかしこれは画面の構成を意図して変えた、というよりは、ながさわのテンションが落ちた、と見るほうが正しいだろう。

 作家にとって作品は、安定して作られるのが良いわけではない。殊、この作品群のようにある意味日常を転写していくような作品の場合、日常の中でのゆらぎがどのようなものに起因しておきていて、それが作品にどのような影響を与えているのかを、作家本人が理解した上で、その不安定さを見せてゆくことも必要であるはずだ。その意味で最も示唆的なのが9/16の、ながさわの父親が倒れ、急遽実家に帰ることになったことによる「戦線離脱」の日だ。奇しくもカープとの激しいCS出場を巡る争いの最中、ヤクルトが調子を上げてきた(9/14からヤクルトは六連勝、9/15からカープは七連敗)、ながさわにとってもヤクルトにとっても、非常に大事な時期だ。9/17は月曜日、本来はプロ野球も休みのはずの日なのだが、この日は敬老の日であり、試合が開催されていた。しかも9/17からの相手はカープである。つまりCS出場をかけた、天王山的な試合でもあるのだ。ここに意味を見出すのは野暮かもしれないが、しかし結果的に、「いつもと違う日に、いつもと違うことが起きた」ということを感じさせずにはいられない絵となっている。

 この対広島三連戦の一枚絵は、左側に16日深夜に実家からの電話、及び帰郷の様が、中央部に17、18日の試合の様子、右側上部に9/19日、ながさわの父が亡くなり再度帰郷の道中、東北道でこの試合のラジオ中継を、ノイズ混じりの広島RCC中国放送を聞き、またその下部に当日の試合の模様が描かれている。17、19日の試合分には色がついておらず、この時期の忙しさを思わせる。また次の対戦カードである対巨人三連戦、この一試合目に巨人は優勝するのだが、その日に行われた、巨人ファンであったながさわの父の葬儀の様は、その上部に描かれている。

 注目すべきは、画面の中でのながさわのあわてぶりや、色のついていないことからの忙しさは伺えるのに、筆致が相変わらず安定していることだ。これは、ながさわが毎日、来る日も来る日もヤクルトの試合を描き続けてきたことの成果のひとつに間違いない。この日々の積み重ねによる安定した筆致と、心情の揺れ、忙しさ、そういうものとのアンバランスさは、これだけ大量に並べられたプロ野球の絵の中に、ある人物の家の問題が突如放り込まれたことのアバランスさと相まって、なんとも言えない不気味さを感じる。しかしこれを描いたことは、決して失敗などではない。むしろこのことは、この作品群が単なる東京ヤクルトスワローズ公式戦全試合のジャーナル的なものではなく、そうであると同時に、ながさわたかひろという作家個人と密接に結びついたものである、ということを宣言するために必要不可欠だったはずだ。日常=大きく変わることのない毎日に、突如侵入してきた「父親の死」という非日常、その侵入者たる非日常は、全体から見るとアンバランスで、「不気味」に見える。

 一昨年、去年、今年と続いてきた中で、ながさわが野球以外のことを描いたのはこのことのみである、という事実は、「日常」に突如侵入してくるものというのは、それだけ大きい変化をもたらすもの以外にはありえず、またそれだけプロ野球の日々の興行というものは、何事にも動じず、確固として続いてゆくものなのだ、と作家が信じていることを教えてくれる。プロ野球という確固たる日常に侵入してきた、非日常的な「不気味さ」が際立っていることによって、またその不気味な非日常がきちんと「プロ野球ぬり絵」の中に描かれていることで、不気味ではない、普段通りのプロ野球が、ながさわにとって、非常に高い強度を持つ「日常」であることが確認できるのだ。



 ながさわは自分がただのヤクルトファンではなく、ヤクルトの 「選手」として、作品を制作し続けている、と言う。プロ野球「日常」として扱うのであれば、彼は全くもってそのとおり、間違いなく「選手」なのだ。プロ野球選手とは野球を飯のタネにする者であり、野球をプレイすることで日常を生きるものである。野球をプ レイする、という言葉を、競技者として球を投げ、打ち、捕るということだけでなく、もっと大きく捉えるのであれば、ながさわたかひろもまた野球をプレイし ていると言えるのかもしれないのだ。つまり、プロ野球が日常であり、その日常に積極的に参加するものをある意味で「プロ選手」というのであれば、ながさわたかひろは まさしくその意味において、「ながさわたかひろ選手」なのである。選手が戦線を離脱するには、それ相応の理由が必要であり、それはきちんと描かれなければならなかったがゆえに、今年の絵の中の、あの特異な一枚は必要であったということは、繰り返し強調しておこう。



 プロ野球は日常である。一試合ごとに一つの区切りがあり、一シーズンごとにまた大きな区切りがある。ながさわは、一試合ごとあるいは一連戦の単位毎に作品を区切り、一シーズンごとに作品を区切る。だがそれは、地球に生きる生命のライフサイクル、24時間、一年という区切りがあるのと同様だ。その区切りの積み重ねが日常であり、「生命」なのだ。

 ながさわたかひろの、生活と、野球と、美術とをつなごうとする壮大な画業は、ながさわが選手「生命」を続けていく限り、今後も続いていくのだろうし、その軌跡そのものが「野球選手としての芸術家」のあり方を見せてくれるに違いない。(かつとんたろう)

  • ながさわたかひろ展「プロ野球ぬりえ2012〜魔球の伝説〜」

会期:2012年11月17日(土)〜12/15日(土) 12時から19時 ※日月休
場所:ギャラリー eitoeiko
   〒162-0805 東京都新宿区矢来町32-2  
   Tel.03-6479-6923
   http://eitoeiko.com/

偉大なる西部への鎮魂歌

ウエスタン [DVD]

ウエスタン [DVD]

 『アウトレイジ』が(主に実録系)ヤクザ映画への鎮魂歌であったのと同様に、セルジオ・レオーネによる『ウェスタン』(1968年、パラマウント)は、(主にアメリカの正統的)西部劇へのそれである。
 この映画が制作された1960年代、アメリカでは人権意識の向上やベトナム戦争の影響などもあり、単純な勧善懲悪ものの映画が受けなくなってきており、西部劇はその最たるものとして特にハリウッドからは敬遠されつつあった。そんな中、新たな西部劇の提供国として表れたのがイタリア、そのイタリア製ウェスタン(またはマカロニ / スパゲッティ・ウェスタン)を代表する映画監督が、セルジオ・レオーネである。マカロニの特徴は、一般的には必ずしも正義のヒーローではない主人公、それに派手なガンアクションなどが特徴とされている。代表作は『荒野の用心棒』『夕陽のガンマン』などだ。

 ところがこの映画は、単純にストーリーだけを追うと、いわゆるマカロニ的ではない。伝統的西部劇の、勧善懲悪的な構図なのだ。しかし主人公の「ハーモニカ」にチャールズ・ブロンソン、敵役にヘンリー・フォンダを当てており、これは1950年代の西部劇であれば、一見するとインディアンのようにも見えるブロンソンが敵役、白人で碧眼、それにスター俳優のフォンダが主人公となるはずなのだ。それを敢えて逆にしてみせたのは、これが伝統的な西部劇に見えて、しかし実際にはそうではないことの証拠の一つだ。
 しかしまた、それでも西部劇を愛してやまないレオーネは、本作中にさまざまな伝統的西部劇へのオマージュを散りばめている。たとえば、冒頭の列車が来るシーンは『真昼の決闘』から、シャイアンがジルに言う別れのセリフは『シェーン』から、またほとんど意味もなく入っているよう見えるモニュメント・バレーのカットは、実はジョン・フォード・ポイント(西部劇史上最大の映画監督、ジョン・フォードが好んで撮影に使った、モニュメント・バレーが一望できる場所)からの撮影であったり、ほかにも『捜索者』、『ウィンチェスター銃 ’73』などなど、盛り沢山だ。詳しくはDVDに収められている特典映像で、スタッフたちが解説してくれているので、それを見るといいだろう。

 銃を腰に下げた荒くれ者たちが、馬にまたがり、町を転々とするような「西部」の時代は、汽車に乗った都会のビジネスマンがやってきて、大きな街を作り、商業を発展させることによって終わりを迎える。それを伝統的西部劇の終焉と重ねあわせてみせたのが、この作品の肝だ。
 最後のシーン、主人公のハーモニカと呼ばれる男が、敵役である鉄道王、ビジネスマンのモートン(しかも、彼は足が悪くて馬に乗ることも出来ず、ずっと汽車に乗っている)が死んだのちに、決闘相手のフランクに、「モートンは死んだが、第二、第三のモートンが出てきて、おれたちみたいなやつらは消されちまう」と言って決闘へと向かう。そして、40年代にはジョン・ウェインと並んで、ジョン・フォード映画の常連として鳴らした、言ってしまえば西部劇を象徴する俳優の一人であるヘンリー・フォンダが倒れるのだ。フォンダはこの映画が初の悪役、つまり彼がやられたのはこの映画が最初であり、これをもってして、「西部」は終わる。これはそのような、「西部」を愛する者が、いままさに無くなりつつある「西部」への悲しみや諦め、そういった複雑な思いをまるごと西部への愛情で包んでみせた、美しい鎮魂歌なのだ。

 蛇足になるが、最後に、西部劇の鎮魂歌として『ウェスタン』と双璧をなす、サム・ペキンパーの『砂漠の流れ者』(1970年、ワーナー)にも、少しだけ触れておこう。時代の大きな流れをある種の叙事詩的に、大きな枠組みでもって見せた『ウェスタン』とは正反対に、時代の終わりを個人の体験を通して、小さな物語として優しく描いた作品だ。この映画の主人公が、『ウェスタン』で主人公の相棒役、シャイアンを演じたジェイソン・ロバーズだということも興味深い。これもまた傑作。西部の終焉を見るのであれば、この二本は必見だ。(かつとんたろう)

  • エスタン
  • C'era una volta il West
  • Once Upon a Time in the West

監督 セルジオ・レオーネ
脚本 セルジオ・レオーネ
セルジオ・ドナティ
ミッキー・ノックス(英語版台詞)
原案 ダリオ・アルジェント
ベルナルド・ベルトルッチ
セルジオ・レオーネ
製作 フルビオ・モルセッラ
製作総指揮 ビーノ・チコーニャ
出演者 チャールズ・ブロンソン
クラウディア・カルディナーレ
ヘンリー・フォンダ
ジェイソン・ロバーズ
音楽 エンニオ・モリコーネ
撮影 トニーノ・デリ・コリ
編集 ニーノ・バラーリ
製作会社 セルジオ・レオーネ・フィルム
ラフラン=サンマルコ・プロダクション
配給 パラマウント映画
公開 イタリアの旗 1968年12月21日
日本の旗 1969年10月4日

『蛙鳴』莫言 ―中国の「市民」小説―

蛙鳴(あめい)

蛙鳴(あめい)

 これはある種の市民小説的な作品だ。トーマス・マン『ブッデンブローク家の人びと』、北杜夫『楡家の人びと』、ガルシア=マルケス百年の孤独』、そのような作品群に連なる、素晴らしい小説である。マンがドイツの、北が日本の、そしてガルシア=マルケスが南米の、古い時代と新しい時代との狭間に生まれた人間たちが、その流れに翻弄されながらも必死で生き、また死んでゆく様を、冷静に、優しく描いているようにして、莫言が中国の人々を描いたのが、この『蛙鳴』だ。



 マンや北が、自身と家族たちをモデルとしたのと同じく、莫言も自らをモデルとし、さらにその物語を日本の文学者へ向けた手紙として、この小説は書かれている。莫言は1955年生まれであるので、おそらくこの小説の主人公、万足も同じ頃の生まれだとされているのだろう。一人っ子政策がはじまった1979年からの数年間を中核とし、物語は進む。労働力の確保、あるいは跡継ぎの確保のために、文革期を含め、子供は産めや増やせやとばかりに大勢生まれ、主人公の叔母――村のみならず周辺一帯に評判を鳴り響かせる産婦人科医――は子供らを取り上げるのに東奔西走する。ところが一人っ子政策が始まると、共産党の党員の叔母は計画出産の委員となって、二人目以降の子供をはらんだ女たちを堕胎させる役割を担うことになる。王足の妻も、堕胎させられる女の一人だった。


 前半部のあらすじは、ざっとこのようなものなのだが、この小説が先に挙げた三作品と異なるのは、地の文が一人称である点だ。上記の三作と同じように、その村の人間たちのさまざま感情が細やかに描かれているのだが、三人称のそのような小説がどうしても空からの視点、俯瞰するような視点であるのに対し*1莫言が作中に登場する人物たちを見つめ、描き出す目は大地に張り付いており、彼ら登場人物と同じ地平から世界を見渡している。描かれる人々の悲哀を同じ地平から見つめ、同じようにして「私」の悲哀を語っているのだ。

 
 なぜ莫言は、語り手=一人称の人物をこの「市民」小説的な小説に登場させたのか。それはおそらく、彼がマンや北、マルケスなどよりも、小説と現在とに強いつながりを感じているからではないだろうか。


 そもそも「市民小説」と一般に言われる『ブッデンブローク家の人びと』や『楡家の人びと』は、年代記のような性格を併せ持っている。そしてそのような小説を書くには、その一家を、まるごとひっくるめて見ることができるような大きな目、大きな存在を必要とする。どこにも偏らず、すべてを見通す大きな目のみが、その年代記をひとつの物語として語りうるのだが、莫言はそうはしなかった。彼は、過去に起こった現実の出来事、年代記のパーツのひとつひとつに対し、客観的に相対することを自らに許していない。


 大局的で合理的な、共産党からの近代的配慮の賜物たる「一人っ子政策」は、ただの一農民、近代的市民ではない農民たちに苦悩を強い、抵抗させ、みじめにさせてきた。そのような農民たちの傷が、いまだ癒えることなく、澱のように溜まっている中国の現状があるからこそ、その澱は作者の分身がその現場にいることで、はじめて描き出すことができたのだろう。その意味でこの小説は、日本のある種の私小説がそうであるように、いまだに決着していない作者の中の問題を、決着していないままに、しかしそれでも前に進むために書かれた小説だとも言えるはずだ。


 そしてまた、その一人称によって描かれたことによってこの小説は大地に根付くものとなった。その意味で、上記三作の中でこれに最も近いのは『百年の孤独』だろう。方法論こそ違え、土地によって生かされ、土地によって呪縛され、子供が生まれ、跡継ぎを作っていこうとする「家」がそのような中で続いてゆく物語として、『蛙声』は、真に『百年の孤独』の後継であると言えるはずだ。『百年の孤独』は、時間と空間を軽々と飛び越えてゆく視点によって大地に生きる人間を描き、『蛙鳴』はそれこそ、作者≒主人公そのものが地べたを這うことで、同じく地べたを這う人間たちを追っていった。


 中国においての革命は、毛沢東に言わせれば、都市の労働者ではなく、土地の農民の手によって行われるべきものだ、ということになるらしい。そうであるならば、農民が都市労働者というものを経ずに近代的な「市民」になりえたのか、それもこの小説の主題のひとつであるはずだ。ゆえに、共産党が中国の覇権を握って以降の農民たちが、時代や党と対峙する群像劇的な小説は、そのまま「市民」小説であるべきなのであり、その市民小説は『百年の孤独』と同じように、これまで世界中*2で描かれてきた近代的市民とは全く異なる、新しい「中国の」市民小説として、あるはずなのだ。(かつとんたろう)

*1:『楡家の人びと』冒頭、伊助が飯を炊いているシーンなどは、俯瞰的な視点の小説が描きうる、最も素晴らしい情景のひとつだろう

*2:つまり欧米や「先進国」の中

私小説はいかにしてSFとなるか 

田紳有楽・空気頭 (講談社文芸文庫)

田紳有楽・空気頭 (講談社文芸文庫)

 稀代の私小説作家である藤枝静男の「田紳有楽」は、一部のSFファンからは、日本有数のSF短編であるという評価がなされている。スラブ文学者の沼野充義は、『SFマガジン』の600号記念オールタイムベスト日本短編部門第三位にこの作品を挙げており、また『しずおかSF 異次元への扉』(しずおかの文化新書、2012)には、岡和田晃藤枝静男についての論考を寄せている。


 一般的に私小説として見られる作品がなぜ、SFとして評価されるのか。「内宇宙」というものが、そこでのキーワードになるのだが、まずはこの小説と藤枝静男の世界がどのようなものであるのかを確認しておこう。


 『田紳有楽』は、ある人物によって庭の池に沈められた陶器たちが語り手の小説だ。陶器たちはいずれも「まがい物」として制作されたものであり、彼らが一人称によってこの物語を語ってゆく。彼らが人の形に変化(へんげ)した際に用いる「滓見白」という名が、藤枝静男の本名である「勝見次郎」から取られていることからもわかるように、各々が藤枝静男と、ある部分では重ねられているはずだ。ぐい呑みであるところの「私」は金魚のC子と交合し、茶碗である「私」は空を飛び、丼鉢の「私」は茶碗同様空を飛ぶばかりか、池に来る前にはシルクロードで偽物のチベット僧と旅をしていた経験すら持つ。
 注目すべきは、これらがすべて「まがい物」である点だ。陶器も偽物、チベット僧も偽物、茶碗が出会う大阿闍梨も偽物。全部偽物なのだ。また、陶器たちが池に沈められている理由は、まがい物が、時間をかけて「本物」になることを期待されているからだ。しかし彼らは「本物」になれるのだろうか。あるいはそもそも、偽物と本物とは、一体何なのか。彼らは、あるいは全ての自然は「私」であるはずなのに。


 藤枝静男は二十代から文学を志したが、そのころの彼には、自分が書くべき「私」がなかったと言う。私小説作家で俳人での瀧井孝作に「自分のことをありのままに、少しも歪めず書けばそれで良い」と言われても、書くべき「私」を見つけることが出来なかった。藤枝の処女作「路」は39歳のときの作品である。妻が病にかかり、その病で死んでゆく人たちを見たときに、彼の危機意識をベースにして書かれた作品である。しかしベースにして書かれはしたものの、それは彼の生き方に決着をつけるために、それを見つめ続け、誇張することでこれを作品とした。
 かつて『文藝』誌において、川崎長太郎吉行淳之介が対談したことがある。志賀直哉の弟子である吉行淳之介に向かって川崎は、「志賀の小説には、嘘がある。自分をありのままに書くことが私小説ではないのか」と詰め寄るのだが、川崎の私小説に誇張がまったくないのか、というと、案外そうでもない。私小説とは、そういうものなのだ。「自らを切り取る」ということは、そもそもが誇張でしかないのだ。
 藤枝静男は妻の病によって、「私」の発見と、それを書くことの覚悟を手に入れた。自らを歪め、誇張して書くことで、自らの底を見せることを覚悟できるようになったのだ。そして、その覚悟が行き着く先は、自己の究極化であり、自らが世界の絶対者となり、世界が無になることである。「この世には普遍的現実なんかない」「個人的現実しか信用しない」(「天女御座」)と断言してみせる藤枝静男は、「私」に深く潜り、「私」によって世界を見つめることで、このような境地に達したのだ。全てが自分であるのなら、自らの中に全てがあり、それは無だ。空だ。色即是空、空即是色。


 『田紳有楽』に戻ろう。「私」という視点が、ぐい呑み、茶碗、丼鉢と次々と移り変わり、またそれぞれの「私」がそれぞれに変化(へんげ)するのは、まさにそういうことなのだ。藤枝静男が「私」を通して見る世界=宇宙が、そこにある。彼にとっての自然とは、「私」そのものなのだ。「まがい物」の「私」は、本物になるのではなく、「まがい物」として在り続けることで、まるで藤枝静男が「私小説」を書いたようにして、本物と偽物との境界を突き抜け、ひとつの究極となりうる。藤枝静男が、その究極の「私=世界」を顕現させてみせたのが、この『田紳有楽』にほかならないのだ。


 ここでやっと、SFの話につながってくることになる。「私=世界」とは、SF的な言葉で言い直すと、自らの内にある「内宇宙」となる。その内宇宙の探求を中心に据えたSFの潮流が、いわゆる「ニューウェーブSF」だ。ニューウェーブと言われる作品群は、50年代までのクラシックなSF、物理的な宇宙へと向かっていくSFではなく、人間の内側、内宇宙へと向かっていくSF、とされている。1960年代、イギリスの「New Worlds」という雑誌を中心に、世界的に広がっていた反体制運動の盛り上がりとともに形作られていった運動である。J・G・バラードトマス・M・ディッシュサミュエル・R・ディレイニーなどが代表的な作家だ。


 生きているもの死んでいるもの、人間・非人間、生物・非生物を問わず、自由闊達にすべての世界=私が動きまわる。藤枝静男の内宇宙、その宗教的かつ祝祭的な世界を描いた本作は、自らの「内宇宙」を探求したニューウェーブSFとして評価されるべき作品であり、まさにSF=スペキュレイティブ・フィクション(思弁小説)そのものである。
 最後に、藤枝静男が、SFとして評価されるべきだということを示すものとして、日本におけるニューウェーブSF運動を牽引した山野浩一の「NW-SF宣言」の後半部を引用をしておく。

……長い歴史の間に、人々はいつも自分の中に現実以外のもう一つの世界を持ち続けていた。そのもう一つの世界を現出させることができるのが小説や、音楽や、或いは狂気の行為であった。そしてSFの拡大世界は、最も自由にそうした世界を展開できるのである。


 もう一つの世界、人々の外にある現実ではなく、騒音によって破壊されていない人々の内にある世界、それこそ本当に”世界”と呼ぶべきものである。その”世界”をアトム化から、或いは管理から救出するために、SF――NW-SFが必要なのである。

 SFは想像力世界を殆ど全面的に受け入れることができるだけの広大な小説世界を持っている。しかし、その大部分は空白のままである。

 NW-SFは、多くの人々の思考世界を表現していきたい。自由な小説として、思考世界の小説としてのSFを開拓するために、NW-SFを開放していきたいと考える。

 バラードが「SFがH・G・ウェルズに始ったのは不幸であった」と述べているように、これ迄のSFの作品体系に重要な意味はない。あるとすれば、一部の作品にある思考世界の論理だけである。むしろNW-SFは、SFに可能なより広大な世界と接触していかねばならない。ブルトンによるシュールレアリスムの理想も、H・G・ウェルズの世界観も、フリッシュやバローズの現代小説も、全て新しい思考世界への論理として重要な意味を持っているだろう。しかし、それは小説体系に於いてではなく、現代人の内的世界とのかかわりに於いてである。
(中略)
 しかし、未だ少数派ながら、私は、これこそSFだといいたい。SFは《Speculative Fiction》――つまり、思考世界の小説だと。……*1

「季刊NW-SF」Vol.1、NW-SF社、1970)

*1:「季刊NW-SF」Vol.1、NW-SF社、1970)