私小説はいかにしてSFとなるか 

田紳有楽・空気頭 (講談社文芸文庫)

田紳有楽・空気頭 (講談社文芸文庫)

 稀代の私小説作家である藤枝静男の「田紳有楽」は、一部のSFファンからは、日本有数のSF短編であるという評価がなされている。スラブ文学者の沼野充義は、『SFマガジン』の600号記念オールタイムベスト日本短編部門第三位にこの作品を挙げており、また『しずおかSF 異次元への扉』(しずおかの文化新書、2012)には、岡和田晃藤枝静男についての論考を寄せている。


 一般的に私小説として見られる作品がなぜ、SFとして評価されるのか。「内宇宙」というものが、そこでのキーワードになるのだが、まずはこの小説と藤枝静男の世界がどのようなものであるのかを確認しておこう。


 『田紳有楽』は、ある人物によって庭の池に沈められた陶器たちが語り手の小説だ。陶器たちはいずれも「まがい物」として制作されたものであり、彼らが一人称によってこの物語を語ってゆく。彼らが人の形に変化(へんげ)した際に用いる「滓見白」という名が、藤枝静男の本名である「勝見次郎」から取られていることからもわかるように、各々が藤枝静男と、ある部分では重ねられているはずだ。ぐい呑みであるところの「私」は金魚のC子と交合し、茶碗である「私」は空を飛び、丼鉢の「私」は茶碗同様空を飛ぶばかりか、池に来る前にはシルクロードで偽物のチベット僧と旅をしていた経験すら持つ。
 注目すべきは、これらがすべて「まがい物」である点だ。陶器も偽物、チベット僧も偽物、茶碗が出会う大阿闍梨も偽物。全部偽物なのだ。また、陶器たちが池に沈められている理由は、まがい物が、時間をかけて「本物」になることを期待されているからだ。しかし彼らは「本物」になれるのだろうか。あるいはそもそも、偽物と本物とは、一体何なのか。彼らは、あるいは全ての自然は「私」であるはずなのに。


 藤枝静男は二十代から文学を志したが、そのころの彼には、自分が書くべき「私」がなかったと言う。私小説作家で俳人での瀧井孝作に「自分のことをありのままに、少しも歪めず書けばそれで良い」と言われても、書くべき「私」を見つけることが出来なかった。藤枝の処女作「路」は39歳のときの作品である。妻が病にかかり、その病で死んでゆく人たちを見たときに、彼の危機意識をベースにして書かれた作品である。しかしベースにして書かれはしたものの、それは彼の生き方に決着をつけるために、それを見つめ続け、誇張することでこれを作品とした。
 かつて『文藝』誌において、川崎長太郎吉行淳之介が対談したことがある。志賀直哉の弟子である吉行淳之介に向かって川崎は、「志賀の小説には、嘘がある。自分をありのままに書くことが私小説ではないのか」と詰め寄るのだが、川崎の私小説に誇張がまったくないのか、というと、案外そうでもない。私小説とは、そういうものなのだ。「自らを切り取る」ということは、そもそもが誇張でしかないのだ。
 藤枝静男は妻の病によって、「私」の発見と、それを書くことの覚悟を手に入れた。自らを歪め、誇張して書くことで、自らの底を見せることを覚悟できるようになったのだ。そして、その覚悟が行き着く先は、自己の究極化であり、自らが世界の絶対者となり、世界が無になることである。「この世には普遍的現実なんかない」「個人的現実しか信用しない」(「天女御座」)と断言してみせる藤枝静男は、「私」に深く潜り、「私」によって世界を見つめることで、このような境地に達したのだ。全てが自分であるのなら、自らの中に全てがあり、それは無だ。空だ。色即是空、空即是色。


 『田紳有楽』に戻ろう。「私」という視点が、ぐい呑み、茶碗、丼鉢と次々と移り変わり、またそれぞれの「私」がそれぞれに変化(へんげ)するのは、まさにそういうことなのだ。藤枝静男が「私」を通して見る世界=宇宙が、そこにある。彼にとっての自然とは、「私」そのものなのだ。「まがい物」の「私」は、本物になるのではなく、「まがい物」として在り続けることで、まるで藤枝静男が「私小説」を書いたようにして、本物と偽物との境界を突き抜け、ひとつの究極となりうる。藤枝静男が、その究極の「私=世界」を顕現させてみせたのが、この『田紳有楽』にほかならないのだ。


 ここでやっと、SFの話につながってくることになる。「私=世界」とは、SF的な言葉で言い直すと、自らの内にある「内宇宙」となる。その内宇宙の探求を中心に据えたSFの潮流が、いわゆる「ニューウェーブSF」だ。ニューウェーブと言われる作品群は、50年代までのクラシックなSF、物理的な宇宙へと向かっていくSFではなく、人間の内側、内宇宙へと向かっていくSF、とされている。1960年代、イギリスの「New Worlds」という雑誌を中心に、世界的に広がっていた反体制運動の盛り上がりとともに形作られていった運動である。J・G・バラードトマス・M・ディッシュサミュエル・R・ディレイニーなどが代表的な作家だ。


 生きているもの死んでいるもの、人間・非人間、生物・非生物を問わず、自由闊達にすべての世界=私が動きまわる。藤枝静男の内宇宙、その宗教的かつ祝祭的な世界を描いた本作は、自らの「内宇宙」を探求したニューウェーブSFとして評価されるべき作品であり、まさにSF=スペキュレイティブ・フィクション(思弁小説)そのものである。
 最後に、藤枝静男が、SFとして評価されるべきだということを示すものとして、日本におけるニューウェーブSF運動を牽引した山野浩一の「NW-SF宣言」の後半部を引用をしておく。

……長い歴史の間に、人々はいつも自分の中に現実以外のもう一つの世界を持ち続けていた。そのもう一つの世界を現出させることができるのが小説や、音楽や、或いは狂気の行為であった。そしてSFの拡大世界は、最も自由にそうした世界を展開できるのである。


 もう一つの世界、人々の外にある現実ではなく、騒音によって破壊されていない人々の内にある世界、それこそ本当に”世界”と呼ぶべきものである。その”世界”をアトム化から、或いは管理から救出するために、SF――NW-SFが必要なのである。

 SFは想像力世界を殆ど全面的に受け入れることができるだけの広大な小説世界を持っている。しかし、その大部分は空白のままである。

 NW-SFは、多くの人々の思考世界を表現していきたい。自由な小説として、思考世界の小説としてのSFを開拓するために、NW-SFを開放していきたいと考える。

 バラードが「SFがH・G・ウェルズに始ったのは不幸であった」と述べているように、これ迄のSFの作品体系に重要な意味はない。あるとすれば、一部の作品にある思考世界の論理だけである。むしろNW-SFは、SFに可能なより広大な世界と接触していかねばならない。ブルトンによるシュールレアリスムの理想も、H・G・ウェルズの世界観も、フリッシュやバローズの現代小説も、全て新しい思考世界への論理として重要な意味を持っているだろう。しかし、それは小説体系に於いてではなく、現代人の内的世界とのかかわりに於いてである。
(中略)
 しかし、未だ少数派ながら、私は、これこそSFだといいたい。SFは《Speculative Fiction》――つまり、思考世界の小説だと。……*1

「季刊NW-SF」Vol.1、NW-SF社、1970)

*1:「季刊NW-SF」Vol.1、NW-SF社、1970)