最も恐ろしく、楽しい変化球、ナックルボール 

  • Dave Clark『THE KNUCKLEBOOK』(2005, Ivan R. Dee)

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 洋書ですみません。野球に興味ない方も、すみません。それでもこれは書かせてください。素晴らしく愉快な本です。著者のテンションは非常に高く、硬軟織り交ぜた語り口は、英語でもさらっと読めてしまうほどだし、それに各種取り揃えられた野球関係者たちの名言や、ベースボール・トリビアなどは、野球好きならこれだけでもご飯三杯食べられます。さらにもうひとつ、英語が難しくない。もちろん難しくないと言っても、独特の野球英語には戸惑うかもしれませんが、そういうときは『ベースボール英和辞典』という便利なものがあります。ちょっと使いづらいですが、無料のアプリでも、野球英和辞典、あります。野球好きでアメリカの野球本を読んでみたいけど、英語はちょっと、という方にもオススメできます。150ページに満たない、というのもいいですね。
 というわけで、まず表紙に書かれた言葉を引用しましょう。

“This book will teach you all you need to know about the most frustrating yet entertaining pitch in baseball: the knuckleball--how to throw it, how to hit it, how to catch it, how to coach it, how to umpire it, and how to watch it.”
「この本は、野球において人を最も苛つかせ、しかし最も楽しませもするボール、ナックルボールについて、あなたが知るべき全てをお教えします。つまり、どのように投げ、打ち、捕り、教え、ジャッジし、さらにどのように見るか、ということを。」

 本書ではこの「投げ、打ち、捕り、教え、ジャッジし、さらにどのように見るか」ということが各々章立てられており、またほかに、ナックルがいかにして揺れるのか、ナックルの歴史、ナックルのための練習などの章が存在しています。150ページもない本なのに、がんばりますね。そもそも本格的なナックルボーラーは日本には存在したことがなく、このようなナックルボールに関する本が出ること自体、考えられません。やはり野球大国アメリカ、すごいもんです。

 で、ここでまず、野球をよく知らない方のためにナックルボールの説明しておきましょう。ナックルボールとは、ボールをほとんど回転させずに投げることで、球の空気抵抗を大きくし、さらにその少しだけの回転が、球の縫い目の微妙な盛り上がりに空気抵抗を複雑に与えることで、球速は遅く、しかし投げた本人もどのように曲がるか予測不可能になってしまうという、あらゆる変化球の中で最も特殊なボールです。身体への負担が少ないので、いわゆる「ナックルボーラー」(あるいは「フルタイム・ナックルボーラー」)と呼ばれる投手は、その投球のほとんどをナックルボールが占めることになります。
 この、はために見るとただの遅い球のように見える変化球がどれだけ恐ろしいかは、この動画を見てください。史上唯一の300勝ナックルボーラーフィル・ニークロの動画です。

  あまり変化していないように見えて、それでも打者は空振り、捕手はポロリ。そして大きく変化するときは、めちゃくちゃに曲がります。恐ろしいです。本書において、メジャーリーグの審判であったロン・ルチアーノは、メジャーにおけるナックルをこう表現しています。
メジャーリーグにおいては、まるでかろうじて生き延びているカルト宗教のように、少なくとも常に一人はナックルを投げる「信者」はいても、五、六人以上になることはめったにない。投手がコントロール出来ないだけでなく、打者は打てず、捕手は捕れず、コーチは教えられず、そして多くの投手は覚えることすら出来ない。そう、パーフェクトな投球なんだ。」

 さてこの本、ひとつには実用的な技術指導書という側面を持っており、特にカレッジ・ベースボールへの取材は綿密です。アメリカにおけるカレッジ・ベースボールの位置づけは、日本における甲子園に近いものがあります。つまり、競技人口が多いのです。本書ではカレッジ・ベースボールのことを取材しているのではなく、数多のカレッジ・ベースボールプレイヤー、その中で活躍してるナックルボーラーや、対戦した打者などにも取材をしているのです。そんな取材に裏付けられたナックルボーラーになりたい人のためのQ&Aは、けっこう充実しています。リトルリーガーの息子を持つ人や、大学でプレイする選手からの質問が寄せられています。抜粋しましょう。


「Q:もしそんなに腕に優しいのなら、なんでみんなナックルを投げないんですか。」
「A:ティム・クルクジャンという記者が、チャーリー・ハフ(引用者註:200勝ナックルボーラー)に同じ事を聞いたことがあります。そのときハフは、こう聞き返しました。「じゃあなんでもっと多くの投手が150km/hの速球を投げないんだい? 難しいからに決まってるじゃないか。」


うん、実用的ですね(笑)。いやこれは冗談として、野球をやっている人にとってはわりと一般的なこと、ナックルボーラーにかぎらず行うべきことを、さまざまなクエスチョンのアンサーとして書いていますが、まあまあ実用的です(ホントです)。

 ただやはり本書は、ナックルボーラーを目指す人間のための実用書ではなく、いかにしてナックルボールを楽しむか、というところに主眼があるように見えます。「どのように打つか」の章の頭には、リッチー・ヘブナーという選手の言葉を引いています。
「ニークロのナックルを打つのは、フォークでスープを飲むようなもんだ」。
またボビー・マーカーに言わせると、
「ニークロのボールを打とうとするのは、デザートのゼリーを箸で食べるのと似てるんだ。たまに欠片はつかめるけど、でもだいたいいつも腹をすかせることになっちまう」。
その他、そうそうたるメンバーがニークロの球の掴みどころの無さをいろんな表現で話していることを紹介してくれています。上記のように、なかなかウィットの効いた受け答えをチョイスしているだけあって、これがなかなかに面白い。
 で、そうだ、「どのようして打つか」に対するアンサーです。たった5ページしかないこの章の結論は、「ボールに惑わされるな。バットを振り回すな」といういかにもふつうのコトである、この二点のみ。まともには打てないということか。「どのように捕るか」の章にいたっては、そもそも章のタイトルが「How to catch it (Maybe)」となってしまい、ページ数も4ページ。完全に投げてるとしか思えません。ただ、ニークロの球を、一時期ボブ・ウェッカー(有名なスポーツキャスター。アメリカのプロレス団体WWEの、87年PPV大会メインイベントにして、いまも名試合として語り継がれているハルク・ホーガンアンドレ・ザ・ジャイアントの実況も担当)が受けていたという事実を知ることができたのはよかったです。こういうトリビアのネタになるのは、野球オタクとしては嬉しい限り。
 それでも、「どのように審判するか」「どのように見るか」の章は、それなりにまじめに書かれており、ナックルボールを見る際には、どこから見るのがいいのか(横からはダメだそうですよ!)、ほかにどのような点に気をつけるべきかなど、、これは結構タメになります。あるいはまた、歴史の項では、名ナックルボーラーがどのようにボールを握っていたのかのイラストと共に、彼らの投球の特徴、それがどのように受け継がれていったのかが、簡潔にまとめられています。

  そもそも、アメリカの野球本の翻訳というのは、一部の有名な選手や監督などの伝記的なもの以外、ほぼありません。というか、最近ではもはやそれすらあまり見かけなくなってきています。アメリカの野球文化の裾野の広さ、視野の大きさをなめちゃいけません。そこに関しては、日本は到底、アメリカに叶わないのです。若い国家であるアメリカは、ベースボールと映画をもって自らの国の神話とし、それゆえにこの二つの文化を何よりも大事にしてきたのです。ベースボール文学、ベースボールアート、それらは文学史、美術史の中に位置づけられており、そのことを考えると、やはり野球は、ひとつの文化体系として自立しているように思えます。本書の面白さも、アメリカの野球文化・歴史の懐の深さを思わずに入られません。
 野球が国家神話のひとつですらあるアメリカ、彼らが野球をどう愛してきたのかを知りたければ、自分で原書を読むしかないでしょう。アメリカのみならず、日本でも韓国でも台湾でも、野球を、プレイのみならず、文化として考えるなら、アメリカのベースボールを勉強すべきなのです。翻訳は、待っていたって出ません。さあ、野球本を読みましょう!

(追加情報。今年、アメリカで「ナックルボール」というドキュメンタリー映画が一部で公開、DVD発売されました。御参考までに。http://www.knuckleballmovie.com/index.html
(かつとんたろう)