「日常」としての「プロ野球」 

神様のいない日本シリーズ (文春文庫)

神様のいない日本シリーズ (文春文庫)


  第140回芥川賞の選評では、選考委員に「なんでもかんでも詰め込みすぎ」、「観念の操作が透けて見えてしまう」 、「話の運びには問題があるのではないか」 などという評価を受けた田中慎弥『神様のいない日本シリーズ』だが、それでもしかし、これは素晴らしい小説だ。なぜなら、彼の小説のテーマである「父と子」という、近代小説以前に遡る古典的テーマを現代日本で扱うにあたって、野球ほど、その媒介として適当なものはなかなか見当たらず、またその野球の本質たる「待つ」こと、「間を読む」ことを、サミュエル・ベケットの「ゴドーを待ちながら」を援用することで、なんとか描こうとしている。その試みが大成功しているとは、さすがに言えないが、それでも「野球文学」という括りにおいて、この作品が一級品であることは間違いない。


 さて、『神様のいない日本シリーズ』というタイトルが直接的に指すものは、過去に二度しかない、三連敗からの四連勝という「奇跡」的な逆転をやってのけた、1958年の西鉄対巨人、1986年の西武対広島、このふたつの日本シリーズのことだ。この二つの年に起きたできごと、58年においては語り手の父の、86年においては語り手自身のできごとが、彼らふたりの「プレイされなかった野球」と共に、語り手の息子へと語られる。
 前者は、家を支えるために高校への野球推薦を蹴って就職せざるをえなかった父が、職場で母と出会う話。後者は、メジャーリーグの投手、ジョシュ・ベケットの話から、サミュエル・ベケットの「ゴドーを待ちながら」を中学校の文化祭で上演する話が、母子家庭の一人息子である語り手の、家にはいない父親から届く「中学生のうちに野球をやれ」という葉書が届く、ということと共に語られている。

「月曜日、本当は新しいことが始まる日。なのにその年の十月二十七日は、七試合で終わるはずの日本シリーズが持ち越されるし、中間テストの最終日だし、(引用者註:「ゴドーを待ちながら」の舞台の)背景もまだ、一枚目の枯れた柳しか出来上がっていなかった」(文春文庫 p.137)


「とにかく、父親が戻ってくるかもしれない。今日、西武が広島に勝ちさえすれば。」(文春文庫 p.140)

 この月曜日の日本シリーズ第八戦、西武は勝ち、日本一になりこそすれ、父親は帰って来なかった。特別な瞬間が来るはずだったそのときに、しかしその瞬間は訪れず、奇跡は起きなかった。そしてただ日常が、「プロ野球」のある日常が続いていた。

 語り手は「ゴドーを待ちながら」を上演することになる前、演目に「走れメロス」はどうか、と提案している。奇跡が起きるべくして起きる話だ。だが結局、演目には「ゴドー」が選ばれた。ある意味、そこで「ゴドー」が選ばれたことで、日曜日に起こらなくてはならなかったことは月曜日に持ち越され、奇跡は起こるべきときに起きないことが、すでに決定されていたのかもしれない。語り手はしかし、それでも奇跡を「待つこと」を、次へと持ち越そうとする。
 走者が出て、得点することを期待しながら、それが実現せずに終わってしまうことを、野球では「完全試合」という。それはまさしく「奇跡」のような出来事だ。しかし一方、完全試合の翌日も、投手は代わり、またプロ野球は行われ、日常は続いていく。「何か」は起きるべきときに起きなかった。西武が大逆転で優勝を決めようとも、日本シリーズに「神様」はいなかったのだ。しかし日常=プロ野球は、日によって投手を代え、あるときは野手も代わり、そうやって続いていく。神様が奇跡を起こそうが起こすまいが、日常が続いていく以上、待ち続けるべき理由は十分にあるだろう。語り手はそのようにして、つまり日が変われば投手が代わるようにして、息子に自らのペナントレースを、つまり語り手とその父が「プレイできなかった野球」を受け取ってほしい、プレイしてほしい、と言い、この小説は終わる。
 プロ野球という日常、そこにある「待つ」ということを、これほどまでに主題化した野球小説はほかにない。『神様のいない日本シリーズ』はその意味で、まさにプロ野球的な、素晴らしい「野球文学」として成立しているのである。(かつとんたろう)