緊急企画! 第一回『宇宙ショーへようこそ!』大対談


http://www.uchushow.net/index.html
宇宙ショ−、はじまるよお!

たたた:今回は、特別企画として、かつとんたろう君と僕とで『宇宙ショーへようこそ!』についてディスカッションを行います。
 発端は、ツイッター上で巧君と、とんかつ君、それから僕で『宇宙ショーへようこそ!』についての評価が大幅に割れたっていうことなんですねー。
 まず、巧君が『宇宙ショーへようこそ!』を見に行きまして、僕が次、そして最後にとんかつ君が見たんですね。そこでお互いにあれやこれやと『宇宙ショーへようこそ!』を巡って主にツイッター上で議論をしたのですが、どうにもまとまらず。ここは一つ、ひだらす大会議(笑)を開いて腹を割って話そうじゃないか、ということになったわけです。
そこで、ついさっきも調布のジョナサンで、とんかつ君と議論してきたばかりなわけですがw
 『宇宙ショーへようこそ!』は各種ブログやツイッターでの評価をみる限り、かなり評価が分かれる作品のようです。『宇宙ショーへようこそ!』をいったい『左隣のラスプーチン』のみんなはどうみたのか。そしてどう読むのか、っていうことを話してみたいなと思います。ひだらす内の評価で言えば、とんかつ君が否定派、巧君がやや否定的ながら判断留保、僕は大肯定派(笑)ときれいにわかれていますねw
 そこで、まずは、否定派のとんかつ君の評価を聞いてみたい『宇宙ショーにようこそ!』をどう見ましたか?

かつとんたろうのターン

とんかつ:最初に思ったのは誰に何を見せたかったんだよ、っていう感想。ぼくはこの映画を最初に『SFマガジン』で知ったんですよ。で、この映画にはSF者向けのガジェットはものすごく盛り込まれていて、SFM誌上での監督へのインタビューでも、細かい宇宙人やガジェットの設定について、ものすごく作り込みまくった、ということが書かれていたんですね。でも、それと同時に、子供・青少年が楽しめるジュブナイル的なものであろうとしたようだ、と。それらは同時にやることは可能だろうし、実際にやろうとしていたんだけれど、ガジェット自体が話の筋に噛んでこない。じゃあ何のための作り込みなの?というのがまず一点。
 で、二点目なんですけど、脚本がまずい。下手だと思う。例えばネタバレになるけど、最後の一番盛り上がるであろう夏紀とロボットの対決シーンで、それまで周が夏紀を嫌っているように振舞っていたんだけど、それがなぜかという解説を夏樹が戦いながらセリフで説明してる。夏紀が引越してくるまではだらだらしててそんな夏紀を周は好きだったのに、引越してきてからは変におねーちゃんぶろうとして、という話が、ここでものすごく唐突に説明されてるんですよ。
 経緯の説明と和解とが一瞬にして行われてしまう。しかも「セリフ」で。これは映画なんだし、映像作品で、細部にこだわりました、というのであれば、絵でそれをかききってみせろよ。という感じ。二点目があまりにもひどく感じられたので、ぼくはこの映画はだめだろう、ということです。

たたた:なるほど、フルボッコですねww

とんかつ:「あえて」でもなんでもなく、普通に映画としてダメだろうと思いますw

たたたのターン

たたた:僕は『宇宙ショーへようこそ!』は素直な意味で、いい話だと思いました。きちんと出会いがあって、物語があって、終りと別れがある。本当にストレートな意味でのジュブナイルで、主題をきちんとこなそうとしている映画だと思いました。ラノベやゲーム・アニメ的の想像力だけではなく、むしろ児童文学的な……っていうと語弊があるかもしれないけれど。
 アニメ映画としては例えば『サマーウォーズ』なんかと比較されがちみたいだけど、『サマーウォーズ』は、実はお話を終えられていないと思います。社会インフラのOZが危機にひんしてそれを大家族のみんなが解決するっていうお話は構想として面白いけれど、社会構造上、OZの危機は二度三度と起るように思うし、そもそも米軍の実証実験を社会インフラで行うって、たぶん現実世界以上に世界情勢が悪いんじゃん。奇しくも『宇宙ショー』と同じ名前がでてくる夏希と健二の関係だって、結局は吊り橋効果じゃないか説を唱えたいw
 別のベクトルでいえば、クリストファー・ノーラン監督の『ダークナイト』とかもそうだよね。
 映画としての完成度とは別に、物語の終わりに対してトラウマ的な、恐怖症的な感覚を持っているんじゃないかな、と『サマウォ』なんかを見てると思うわけですよ。
 それはともかくとしても、「マトリックス」や最近のガンダム、特にSEED DESTENYみたいな、ある種のSF的ガジェットの想像力は2000年代のある時期、普通の成長や普通の出会いと別れ、そして世界の問題の解決みたいなことを、うまくこなせなかったんじゃないでしょうか。『宇宙ショー』は、そうした「出来事の解決」を遂行した。つまり物語の終りをきちんと描けたっていう点で実は希少な作品ではないか。
 しかもそれらを小学生たちの内面の成長とともに描くっていう、ある意味ではものすごく古めかしい、古典的な物語をやれた、ってことがすごい。
 もう一点あります。これはたぶん、とんかつ君も同意してくれると思うけれど、とにかくひたすらに美術や小道具がすばらしい。ガジェットや宇宙人たちの動き方や、宇宙っていう異世界に遊びにいって出会う「不思議なもの」としてよく考えられる。古典的なSFのガジェットも多いんですけど、それに古さを感じさせない。ここがすごい。たとえばペットスターで夏紀がジャンプする所とか、あれ『火星のプリンセス』だろw ずっと夏紀が「ヒーローになりたい」っていってるのが、そこで生きてくるよね。ジョン・カーターかおまえはっていうw

細部と映像をめぐって

 
 とんかつ:細部への書き込みというか愛だよね、もはやあれは。その部分に関しては素直に素晴らしいと思う。月の裏側なんていう設定は完全に使い古されているものだけれど、それでもこの映画では十分に見るに耐えられるものに仕上げてる。わくわくするよね。そこに関しては完全に同意するよ。
 んで、たたたくんの評価した一点目の、「話を完結させる」ということだけど、話をきちんと完結させるのは、いまの時代、本当に難しいのはなんとなく理解できる。でもそれを「映画」としてやるときは、絵で話を作っていってこそ、なんじゃないのかな。
 映画でやる、アニメでやる、映像作品でやるってことは、そのメディア、つまりここでは「視覚」になるんだけど、それが持ってるものを十分に生かした上で評価されなくちゃいけないんじゃないだろうか? それができてないとぼくは思うし、話の筋がいくら良くても、それを映像で語れなければ評価に値しないと思うのです。映像の細部はもちろん素晴らしいけれど、それを話の中で生かさなければ意味がないよ。

たたた:ふむ。とんかつ君は話と「視覚」的な要素が緊密に関係しあっているのが「いい映画」だってことなのかな。『宇宙ショーにようこそ!』はそれがあまりできてないってことなんですかね?

とんかつ:そうです。

たたた:ふむ。

とんかつ:例えばさ、小説であれば最初に設定の説明というか、ある種の定義をしなくちゃいけないわけじゃない。まあ最初にでなくても、じわじわと話を追うごとに、っていうのもあるんだけど。で、それは会話か地の文で行うわけだ。なぜならそれは、文字だけで書かれる話だから。ラジオドラマとかならまだしも、音声はあるとはいえ「視覚」のメディアである映画でやるのなら映像で説明・定義を行うのが筋だとおもうのです。セリフは重要ではあるものの、背景の一つ、添え物としてあってほしいなあ、と。本質主義と言われるかもしれないけどw

たたた本質主義恐るべしw と思わなくはないですがww ……とんかつ君がむしろ視覚的な要素と物語の乖離を指摘するのは、余分な話が多いとか、説明セリフが多いとかっていうところに起因するじゃないかと思うし、ジョナサンでもちょっとそんな話をしたけれど、そうした要素をポジティブに捉えることもできるんじゃないか。
 たしかに『宇宙ショーへようこそ!』には視覚的なギミックで、物語の進行に直接関係しないっていうものが多いのは認める。お祭りのシーンもそうだし、「宇宙ショー」それ自体も見た目はハデだけど、放送コンテンツとして、何をやってるかいまいちよくわかんないしね。
でも、この余剰みたいなものに感じる「宇宙」のリアリティもあるんじゃないかな。たとえば、各種ブログでも、実はいらなかったんじゃないか説が流れまくりの、例のバイトシーンとかですが、ああいうシーケンスがあることで初めて、宇宙人の生活や日常ってものを感じることができるんじゃないだろうか。例えば、僕は周があの宇宙人達のベビーシッターするシーンがすごく好きでしてね。ああいうカットで、宇宙人たちを物語に奉仕する人形ではなくて、宇宙という異世界で暮らす「人」として生き生きと描き出してるなって感じがするんです。トンカツ君が否定的なガジェットと物語の乖離ってそういう要素なんじゃないかと僕は読んだんです。

とんかつ:それに答えると、一見して関係ないように見えるところの描写が生きるのは、その物語に真実味を与えるときなのだと思うのです。別のアニメ映画で例えば、『アキラ』で金田の乗ってる赤いバイクあるじゃない? あれに成田山千社札っぽいなにかとか他にもいろいろステッカー貼ってありますよね。あれって全然映画の本筋に関係ないけれど、金田のキャラクターからすると、バイクをああいう形でデコレーションするのはとても自然だし、むしろそれが金田のやんちゃっぽさを裏付けてくれてると思うんだよ。この映画で宇宙人やガジェットの細かさ・美しさが、物語の本当っぽさ、周や夏紀のキャラクターの本当っぽさに寄与しているんだろうか。宇宙への驚きや楽しさ、という面では大きく寄与していると思うし、前半ではそれなりに生きていたと思うんですよ。メガネの男の子(康二)のくず屋「インクショップ」に最初に行くのシーンでの、ああいう描き込みはとてもよかった。いかにもロケットを作ってそうなくず屋の典型ってあんな感じじゃないかな。石川英輔っていうSF作家の「ポンコツ宇宙船始末記」っていう短編があって、これもくず屋のオヤジがロケット作って月に行く話なんだけど、このシーン見たときはその小説を思い出しながら、ああそうそうこの感じ、って思ったもの。くず屋のオヤジがロケット作ってるっていう感じが、きちんと細部のへの表現で出来ていたと思う。
 細部が映画にリアリティを与えるっていうのはそういうことなんだよ、たぶん。でもその細部へのこだわりが、話の小さい部分では成功していたりもするんだけど、大筋そのものに真実味を与えていたかといえば、そうではないだろう、と。真実味・リアルさっていうのは、金田のバイクにしてもそうだけれど、現実で僕らが体験することを下敷きにしているわけで、それを抜きにした細部へのこだわりは違和感にしかならないと思うのです。最後に周を助けに行くっていう真面目な場面で、そのためにロケットがいくらリアルでも宇宙戦艦ヤマトみたいのだったら困っちゃうでしょ?w

たたた:違和感……ですか。

とんかつ:うん。あとはジョナサンでも言ってた、列車型の乗り物に乗っているのに移動感がまるで感じられない、とかね。だったら最後に乗るような宇宙船でいいじゃねーか。列車に乗るっていうのは、移動感まで楽しんでだろうに、という話です。旅行に行くときに飛行機で行くか列車で行くかで、旅をしている感じって全然違うでしょう。細部にこだわるのなら、そういうところを大事にしてこそだよ。

たたた:なるほど。ちょっと抽象的だけどわかるようなわからないような。たしかに『宇宙ショー』の宇宙って「あ、宇宙だっ!!」 っていう感覚があんまりないよね。
 あの映画では、地球人と宇宙人の二項対立なんだ。宇宙人にもいろいろいるけど、その多様性みたいなものはデザインとか宇宙人のデザイン以外ではあんまり生かされていない。そこらへんはたしかにそう。映画の真実味っていうか、物語の身体感覚とでもいうのかな? 宇宙にいっていろんな出来事に巻き込まれて……っていう体験に対して観客が感情移入しきれない。そういう映画と観客との距離が、とんかつ君がいう「違和感」ってことなのかな?

映画の評価とテーマをこなすこと

とんかつ:感情移入、ってのとはちょっと違うかも。飛行機だったら富士山の近くを飛ぶとか発着のときくらいしか外見ないでしょ。でも長距離列車に乗って旅するなら、車中でおしゃべりしてても車窓から外を眺めていたいじゃない。そこを抜きにされると、もはやなんのために列車に乗っているかすらわからないよ。ブラックホールだっけ? 唯一宇宙空間がどうなっているかが見れるシーンだって、列車とかが渋滞しているのを俯瞰視点で列車の外から映画の観客に見せてる。こだわりが中途半端で、小道具を使うためだけにその小道具をだしてる感じがするんだよ。さっきの宇宙戦艦ヤマトの例ほどひどくはないけど、そんな感じ。

たたた:でもやっぱりここでも『宇宙ショー』擁護に回ると、そういう宇宙に対する箱庭感とか浮遊感とか現実味の無さみたいなものがあっても、主題としてはかなり普遍的なテーマを扱っているんじゃないかとは思うんですよ。主題歌を歌ってるスーザン・ボイルにひかれてるわけじゃないけどw
 「唐突だ」と、とんかつ君がいう夏紀の独白とかは、唐突なりに、ある種のカタルシスがあるんじゃないかな。彼女や周が同じことで悩んでいるわけじゃないですか。自分の非を認める勇気がなかったって。その距離が映像で語られていないっていうのはあるかもしれないけれど、彼女たちが抱えて込んでいる葛藤や映画で描き出す主題って、すごく普遍的なことなんじゃないかな。最初のほうの僕の肯定的評価を繰り返すことになっちゃうけど、『宇宙ショー』に対する評価は「そういう柱がきちんと通ってる」ことのすごさなんですよ。『宇宙ショー』自体は多様な解釈を要求するってものじゃなくて、エンターテイメントとして面白い。ビルディングスロマンとしての読み方を観客に要求するわけだけれど、そこにどういうメッセージを込めたかったかってよくわかるな。
 そこで話が戻るけれど、とんかつ君が割とバッサリ切り捨てた脚本っていうのも、僕はけっこうよかったんじゃないかなと思うわけです。
 あの脚本は倉田英之さんという方なんだけど、『かみちゅ!』『R.O.D』『クロス・ロオド』なんかもそうだけど、そういうテーマをずっと引きずってる人なんだなって思ってるんですよ。いつもぶっ飛んだ設定をもってくるんだけど、そこに流れているテーマはいつも普遍的なものであろうとする。例えば行動を起こす勇気の問題とか、人間同士の関係の中にある微妙な葛藤とかね。
 それがジュブナイル的にみて素晴らしいとか、ベタだとかいろいろあるんだろうけれど、アニメ映画のなかでそれを突き詰めたなって感じはあるんです。少なくとも『宇宙ショーへようこそ!』では、筋の通った物語としてうまく動かしてるんじゃないかなぁ。

とんかつ:うん、話の大筋が悪いとかっていうレベルで脚本がダメ、って言ってるわけじゃなくて、脚本ってト書きでいろいろ指定するわけじゃない。それが人物の心理描写になるわけでしょう。例えば、ある人物がうつむきながら歩いていると雨が降ってくるシーンがあったとするじゃない。するとその人物は、とりあえずブルーな気分なのはわかる。文字で書く場合は、わざわざうつむいていること、雨が降ってきたことをどうにかして文字で作品の中に入れなくちゃいけない、つまりある意味で強調して読み取ってもらえるようにしなくちゃいけないけど、映画でならそれは強調されなくても、というか、小説とかでわざわざ書かれるよりも、もうちょっと自然にあることとして描くことができると思うのよ。そういうト書きの部分での説明とセリフの割り振りがよくないんじゃねーの、という話なのです。
 どういう映画、どういう話を作りたいかっていうのはとても力強く伝わってくるし、話自体はベタでも何でもいいんだけど、きちんと語りきってると思うよ。それにこの倉田英之って脚本家、他の作品で知ってるのは小説の「アキバ忍法帖」くらいだけど、おれ、大好きだもんw

  • 次回へ続く!