柿食う客『wannabe』

劇団、柿食う客『wannabe』を見てきました。金曜日のマチネ。紹介文を抜粋すると以下の通り。

気鋭の劇団<柿喰う客>が、中国・韓国の俳優たちとのコラボレーションで創るBeSeTo演劇祭のための新作。
アジアから遠く離れた"ガイコク"で出会った3カ国の若者たちの物語を軽妙なタッチで描きながら、次代の異文化コミュニケーションの新たな姿を問いかける。3カ国語+αが飛び出す、多言語口語演劇。

第十七回BeSeTo演劇祭参加作品である本作は、日本人の役者だけではなく中国・韓国の俳優も参加しているのが大きな売りの一つだ。
 アトリエ春風舎の小さな舞台には、大きなL字型のソファと、マネキンが二つ、箱にもなる四角いイスが一つ。舞台セットはシンプルに過ぎるぐらいシンプルだ。
 三カ国の俳優たちによる英語劇、というだけならきっと珍しくはないだろう。けれども、それが奇妙な「カタカナ英語」であるとなれば話は別だ。
 英訳のような自然さではなく、英語を母国語としない者たちがコミュニケーションの為に崩した英語で会話を紡いでいく。ときどき出てこない語彙や表現、適当なセリフに降り挟まれて、時々思い出したように、それぞれの母国語が飛び出てくる。そうしたコミュニケーションを成立させるための、言わば重みのない言語による演劇だったと言えるのだろう。
 アフタートークで、むしろそれが普通の状況なんだ、と柿喰う客主宰の中屋敷氏は言ったのがすごく印象的だった。アジアの人が集まれば、母国語やアジアのどこかの言葉ではなく、僕たちは英語で会話をするんだ、と。
 そんな言葉で、お互いにコミュニケーションを取り合いながら生きていく。不自然な英語で結ばれた人びととしてのアジア。ねじれたブロークン・イングリッシュこそがリアルな英語としてそこにある。そんなリアルさと不自然な設定が一緒くたに舞台の上でかわされている。

 英語が苦手な僕にとって、この芝居はなんともいえないプレッシャーのある芝居であったことは告白しておきたい。アジア圏の若者たちが共同生活をしていて、そこにシチミという怖い管理人がいる。彼女が居ない間に、友達を招いてパーティをしようとする人々と、奇妙な闖入者によるドタバタ劇。ここではみんなが英語で話し、話せないものたちは適当に語彙を紡いで表現を《捏造》している。その捏造は、他国語を使う人への愛の告白にまで及んでいく。ボディランゲージと適当な名詞を組み合わせて話を続ける捏造っぷりが面白くて面白くて涙がでるほど笑ってしまった。
 けれども、話としては地味にすぎたかも知れない。極めて目立つ演出があったというわけでもない。どことなくシンプルで古典的な話の展開や、役者のドタバタした振る舞いのユニークさはともかくとしても、演劇としてそこまで完成度の高いものだったのか、といえば若干の疑問も残ってしまった。
 もう一つは、ブロークン・イングリッシュで紡がれた言葉であるがゆえの、あらゆることの単純さが怖かった。
 もし、それをちょっと奇妙な言葉で言い換えてもいいならば、この芝居には「詩」がなかったのだといいたい。だからこそシチミの唐突な死は文字通り唐突な「死」であり、あっさりと殺されてしまう女主人の存在の軽さが気になって仕方がなかった。そんな些細な細部がチクチクと気になる芝居だったことは、僕の中では消しがたい。ブロークン・イングリッシュはたしかにコミュニケーションのツールとしてはすばらしい言語なのだろう。でも言葉や振る舞いや演技が持ち得るはずの深みや含意までもが全部壊れてしまったような荒涼とした気持ちにさせられた。含意を持たなければならない告白や殺人で、本音みたいに母国語が火花を散らすことのどうしようもなさ。

 これは、芝居が英語で書かれたゆえの困難さなのか。それとも、若いアジア圏の友人達の、上機嫌きわまりなさのあっけらかんとした暴力の謂いなのか。
 
 最小公倍数としての英語の、そのような新しい困難さを見出したということに、「wannabe」の成果があった。だからあえていおう、観に行ってよかった。ああ、柿喰う客のところで柿くってよかった!

コリッチ
http://stage.corich.jp/stage_detail.php?stage_id=20850

アフタートーク

 そして、アフタートークが超面白かったです。なにやら因縁があったらしい「紙芝居」を終り間際にやってましたが、これはパナイ。とくに韓国中国の盛り上がりっぷりがパナかったっす。