ICC 三上晴子 欲望のコード

ICC 三上晴子 欲望のコード
http://www.ntticc.or.jp/Exhibition/2011/Desire_of_Codes/index_j.html



2011年10月22日から、12月18日まで初台はICCで開催中。
メディアアートはあまり得意ではないのだけれど、これは久しぶりに面白い時間を過ごしたので簡単に紹介しておこう。


 細かい話はICCのHPで紹介されているので以下略。


 「欲望のコード」と名付けられたこの作品は巨大な一室に設置された3つのセクションによって構成されている。1つ目は壁面にびっしりと敷き詰められた無数の小型CCDカメラ。2つ目は天井から吊り下げられた八個の赤外線カメラが動きまわり、地面にそれを投影するモノクロの写像が動きまわる空間。3つ目は、それらのデータベースを参照しながら開示されている三〇数戸の、ハニカム状のモニター。また、会場内にはいくつもの指向性マイクが配置されていて、文字通り「思い出したかのように」その場に過去の音声が再生される。入り口にはこれらのデータベースや画像や音声の挙動をしめるモニタグラフがあるのだけれど、その仕掛けは展示に入るまでよくわからない。
 薄暗い展示スペースに膨大な数の監視カメラを設置して、見ている者を監視し続けるという、過剰なまでの監視/管理への執着がこの作品の魅力というか、魔力である。「監視」そのものが完全に自己目的化したような、監視の哲学とでもいうべきものか。その露骨なまでの監視に関する圧力をさらけ出しているのが、この「欲望のコード」という空間だった。


 他者のすべてをしりたい。他者の知られたくない何かをしりたい。誰もが少し思うに違いないそうした欲望を過剰なまでに表現しているのだが、観客はそれらの監視装置に監視されると同時に監視カメラを「観る」という奇妙な状況に置かれることにもなる。
 監視されるための機械を過剰に見ることで、監視することにもなる引き裂かれたような感じ。
 流れる過去の音や、壁面に備え付けられた無数の小型カメラが一斉にこちらに向かう音。そして薄暗く、絶望的な空間。小型カメラがある壁面の向かいには、そのカメラが抽出した画像をコーラジュするかのように無数のハニカム状のモニターが円形に並んでいているのだけれど、こちらはぼんやりと見ているだけで、昆虫の複眼をのぞき込んでいるかのような、多数すぎる目はむしろ非人格な冷たさを感じる。冷たい、くらい、不気味、しかし、だからこそこの不気味さに囲まれていることに自覚させられ、監視をまた喜んでいる自分を發見させられる。
 そういう展示でした。


 この展示をみていてジェイ・デイヴィット・ポルターらの『メディアは透明になるべきか』という本を読んだ後だったので、この展示が突きつける「露骨さ」は本当に身にしみた。メディアが僕らにとっての環境になったところで、その環境の見え方が変われば僕達を安全安心に取り繕うはずのものが一気に「不気味」なものに変わってしまうということ。たぶんこの展示は意図せずして僕らと社会の関係が、コンスタティブにはほとんど無意味な透明さに覆われていたとしても、暗黙的にパフォーマティブな意味では契約があることを示している。もっというならば、「テクノロジーのことなんてわかりませんてへぺろ!」といいながら、その「わからないテクノロジーが透明になること」には強く同意しているのではないか、ということである。


 そんな風に思ったのは、この「欲望のコード」という展示の空間は、確かに薄暗く不気味でありながら不思議と安心感やたのしさもあったからで、キビキ動きまわる監視カメラのあり方なんかに、テクノロジーのもつ/テクノロジーにもたせるアンヴィヴァレントな諸相が凝縮されていたからだ。このアンヴィヴァレントな安らぎとどう向き合うのか。欲望に従うのか戦うのか。そんなところも問いかけてくる。


500円でこれはおすすめ。ぜひ一度遊びに。