これもまた手元にないのだけれど。

予告された殺人の記録 (新潮文庫)

予告された殺人の記録 (新潮文庫)

ガルシア・マルケスの『予告された殺人の記録』という小説が急に読みたくなって家中の本棚を漁ってみたけれど、ない。

このように「あるはずのものがない」とか「ないはずのものがある」とか「あるものがあるはずの形をしていない」といった事態は実にラテン・アメリカ的な状態ではないだろうか

だから、きっと最後まで見つからないのがガルシア・マルケスの小説の正しいあり方だ。

予告された殺人の記録』に登場する細々とした人名や外挿的に訪れる出来事の数々は、それぞれにいちいち言わなくてもよいような些細なことに過ぎない。

結局のところもっとも重要なのは「殺人を予告」した兄弟が「本当に殺人を犯す」というその骨格だろう。

自殺して即身仏になるといった坊主が本当に自殺することとか、君のことを一生涯愛することにするよといった人が本当に浮気もせずに愛を貫くとか、似ている……ようなことは世にいくらでもあるに違いない。

それでも『予告された殺人の記録』が面白いのは、この「予告」に対して兄弟はさして本気ではなかったことにもよるだろうし、周りの「予告」を本気する住民たちの、ほとんど狂気……というよりも、祝祭的な空気の恐ろしさにもよるだろう。



祭りは本質的には予告に対する反応だ。少なくとも、予告がなければ祭りは起きないのだろう。予告とは、未来に対する反応の先取りでもある。先取りの先取り。それを本気にしてしまってはいけない。

ここまで書いてから、単純に僕は『予告された殺人の記録』を読んで、未来にたいする反応を先取りしたかったのかもしれないと思い当たる。結局其れは小説ではなくてもよいことなのだけれど、小説でなければ、これ以外のことを思い至ることはできないだろう。

 なんだか、そういうものなのだ。余計なことまで知りたくなるときに、非常に魔術的な要素をもつ小説を読みたくなるときは。