ディヴィッド・ポルターの著作から。

電子書籍に関する議論や書物が多数刊行されている。新しい技術は新しいコンテンツやチャンスを生み出すと決まってはいて、最終的にコケてしまうにせよ、メシウマな思いをするができるにせよ、どちらでも手を付けないことには始まらないということもあって、それぞれの立場からそれぞれ書物や情報伝達メディアにおいては久しぶりの「革命」であるこの思いつきにみな延々と振り回されているのはご存知のとおり。

まぁ、かくいう僕もその一人だ。

ライティング スペース―電子テキスト時代のエクリチュール

ライティング スペース―電子テキスト時代のエクリチュール

メディアは透明になるべきか

メディアは透明になるべきか

ディヴィッド・ポルターという、どの領域に分類すればいいのか/されているのかよくわからない研究者である。たぶんメディア論。人と人との間に媒介するさまざまな情報網の性質やそれにともなう人の変化を研究することの領域において、このひとの研究を一言で言い表すのはけっこう骨が折れる。

  • ライティングスペースの研究者である。どのメディアであれ、なにがしかの痕跡を残してしまうものには必ず付随している「書かれる場所」が、どのように変わってきて、変わったのかについて研究している。
  • コンピューターを使った現代のメディア環境と、それを利用・実践するメディアアートの研究者でもある。コンピューターは、その内部動作の特異性(プログラム)によって、私達の知っていることを大幅に変えてしまった。いや、あるいは私たちは大きく変わってしまった。

 僕達はかつて今の電子書籍で訪れそうな「革命」の現場にいくどか立ち会っている。筆が生まれた時。紙が生まれた時。写本から印刷にかわった時。そのときも、結局何が変わったのかのかといえば、「ライティング スペース」のあり方がかわったのだ。

 このように、ポルターは考えている。問題は書かれた内容そのものではなくて、それらを書きつける、ライティングスペースの変容があったのだと。

ちょっと続く