田中久美子『記号と再帰』東京大学出版会

この本のことをしったのはジュンク堂新宿店にあった手作り壁ポスターで、そこに、Twitterプログラマーがこの本を読み進めている様を「実況」していたのが、面白かったとあったからだ。本にしても音楽にしても現在は「レコメンド」がうまく機能していない、としばしば言われるけれど、むしろ昔から「レコメンド」は全然、うまくいってなかったのだ。オススメされるためには、誰かが、自分と同じように、あっけらかんとその本を手にとって読んでいるという当然の事実を伝えればいい。
 まだ割りと最初のほうしか読んでいない僕にとって、この『記号と再帰』という本は、非常に手堅く重たい本だという印象がまず最初にある。東浩紀濱野智史や、ドニミク・チェンでもいいんだけれど、情報環境や芸術文化を縦横に論じる気持ちよさはそれほど強いものではなくて、むしろこれは「実況」には向かない静かな研究書であることに、正直にいえばいささかがっかりもした。
 記号論に詳しくない僕にとっては、はじめから最初の数章にいたるまでの道のりは、むしろ最新の記号論の現在と、プログラムが記号論について与える影響についての概略として読めた。プログラムについても記号論についても詳しくないものにとっては正直にいって様々に「キツイ」内容ではある。そして、この「コンピューターのプログラム」についての話題がひっきりなしに出てくる(それが目的だ)。しかも、それが自分たちの現在にどういう意味があるのかはさっぱり分からないものでもある。
 ただ、その時に著者はわかりやすさについての最低限の配慮を決して忘れない。その忘れがたさが、研究書でありながら何か、おそらくこの本がこの本で述べている事以上のなにかを誘発しようとする「文芸性」にまでたどり着いているような気がする。プログラムの美しい記述(自然言語の、ダラダラとした組版に逆らうかのような、あの字下げだ)や、全体の俯瞰図として出された再帰的でグラフィカルな全体像のまとめ。そうした部分に紡ぎだされているものが、本書の内容よりも、本書を魅力的にしているのではないかなと思ってしまうのだ。章の初めに記述されるさまざまな絵画の記号論的な〈読み〉も、もまた。

 

記号と再帰: 記号論の形式・プログラムの必然

記号と再帰: 記号論の形式・プログラムの必然

何かを知ろう、わかろうとおもって読むべき本ではないのかもしれない。でも、なんだかずっとずっと読んでいたくなるような、わからないような、わかるような、その淡いをすり抜けていく知的興奮が味わえる一冊なんじゃないかな。読みきってから本当は書くべきなのだけれど、きっと読みきった後からはわからないことだってあるのだ。