ろりえ「三鷹の化物」@三鷹氏芸術文化センター

ろりえ、という早稲田発の劇団には、よい思い出と悪い思い出がある。もう12本近い公演を打っている中堅(よりちょっと若手気味)の劇団だけれど、全力かつアッケラカンとした悪ふざけ、無駄な(それは抵抗、なんてことばではくくりようがない)反権威主義。かと思えば、どうこうという主義主張もそんなになくて、ただひたすらにスケールの巨大な演劇じみたいたずらをしかけ続けている。もちろんその軽薄さを嫌いになれるわけがない。あと、出てくる女優さんがいちいち素晴らしい。
 こんかいの「三鷹の化物」は、ろりえの悪ふざけ路線の極北までたどり着いた、スケールだけが無駄にでかい芝居だった。二時間を超える超大作であるが、その根本だけとりだそうと思えばほんの十分で事足りる。売れないコメディアンが貴顕の美女と恋に落ち、ついでに別の女とも恋に落ち、ちなみに人生は転落している。そんな彼の人情劇が、おちゃらけた喫茶店の店員たちやパン屋さんやら宗教かぶれの放送作家やらとの掛け合いによって描かれるのが舞台の前半。舞台の後半は、なぜか怪獣とバトルすることになる。
 ろりえを楽しむにあたって徹底して重要なのは、舞台の「乖離」だ。象徴的に述べれば前半の「人」の物語が、後半の「神」の物語にいつの間にかすり変わってしまう。そのせいで、本来はとても大切だったはずの〈人の人生の物語〉は、極限まで肥大化した悪ふざけの前で「どうでもいいこと」にまで矮小化されてしまうのである。ああ、人生の悩みとか馬鹿馬鹿しい。

 ろりえの芝居においてほぼ必ず出てくるガジェットである「ダミ声の誰か」や「神様」や「怪獣」「天皇」といったモチーフは、共謀してリアリズム殺しのための饗宴を演出する。
神々のガジェットを使って物語を解決してしまいつつ物語を解体してしまう。これは「デウス・エクス・マキナ」的な演出であるといってもいいかもしれない。しかし、ろりえの「デウス・エクス・マキナ」は常に不完全かつ解決ももたらさない。出来損ないでもないが超越性だけが超越している謎の神々。むだにスゴイ無駄。「デウス・エクス・マキナ−2.0」とでもいったらよいこの神々の饗宴は、こんさく「三鷹の化け物」における「化物」たちの大乱闘において極北までやってきた感がある。
 俳優たちも魅力的だし、これだけかき回しながらも最後にハッピーエンドで終る所がすばらしい。梅舟惟永のウエディングドレス姿や、高木健の褌一丁ももはや見慣れた芸風であって、彼らの馬鹿騒ぎは僕らを置いてけぼりにしながらまだまだ続くに違いない。ただし、二時間四十五分の大長編である必要性もほとんど感じず、しびれた足を思いやりながら最終的にはどうでもよい話を観るのは多少の辛さも感じないわけではないのであった。