不定形な境界 ―アノニマス・ライフ 名を明かさない生命―


  • コンセプト

 NTTインターコミュニケーション・センター(通称ICC)は、日本では珍しいインタラクション・アート専門の美術館である。近美や国博といった、いわゆる「二文字の美術館」に比べると、知る人ぞ知る……という感じもある怪しげな、わかりにくい場所にある展示スペースなのだが、世界最先端の技術と知性とセンスによって織りなされる新しい芸術の形を提案し続けていて、いまなおアートの最前線にある美術館であると言ってもよい。

 今回取り上げる企画展は「アノニマス・ライフ―名を明かさない生命―」だ。
 アノニマス(anonymous)。名前のわからない、個性のないものを示す。今回の展示は、その原義に「まだ名付けられていない」という含意を見つけ出して、新しいテクノロジーと生命との関係を模索するというコンセプトで開催した。
 日本では匿名のハッカーの群体、2chやニコ動の謎の「声たち」がふらりと脳裏に浮かんだりするが、それらはたぶん無名(anknown\noname)であり、まだ名付けられてはいない、ということではないということなのだろう。ここで「アノニマス」とつけたセンスの良さと問題意識の先鋭さはさすがはICCといったところである。
 

  • 内容

 しかし、今回の展示はそれらのコンセプトを十全に満たしていたとはいいがたい。スペースのサイズの問題もあったが、展示は全体的に「テクノロジー」に寄りすぎて、ともすれば技術博覧会の様相を感じた。そして、コンセプトとややミスマッチに思える展示もあった……あるいは牽強付会な理由付けか。それは扱う問題意識の広さによるものだったのだろうが、展示の方向性を散漫したことは間違いない。
 たとえば石黒浩と斎藤達也の「米朝アンドロイド」(完成度は微妙)にせよ、渡辺豪の高精細CGによる「オルラン」にせよ、それらは名付け得ない生命の可能性というよりも、それらが「生命」と誤認されてしまうのはなぜか、つまり人間そっくりに見えてしまうのはなぜかを問う作品で別段「名付けられていない生命」として配置した理由とはそぐわないように感じた。
 高嶺格の「Ask for a Trade」は目的地にいくまでの間に、服を物々交換し、その場で着替えていくという不思議なビデオ作品。これもまた生命についての思索というよりも、人の生き方に関する提案というように見えた。これらの展示は展示のリード文にいう「機械と人間をわかつ自明であったはずの「生」の意味を問い直すとともに、(中略)私たちの社会の中に偏在する多様なゆらぎ、境界、そしてその侵犯をめぐる作品」として提唱するべきものだったのかどうか。
 そうはいっても個別の展示は見応え抜群で、オルランの「これが私の身体……、これが私のソフトウェア……」は美容整形の順序を追う作品で、手術によって「肉を移動させる」刺激的な写真がならぶ(何度もこの展示には刺激的な写真があります、と注意された)。全部一四枚の写真のうち八枚が展示されていたが、オルランが身体を「ソフトウェア」と見なす身体のあり方は、その写真とともに直接鑑賞者を動揺させる。
 「スプツニ子!」は、女装男子がテクノロジーでより「女子」へと近づこうとする2つのビデオ作品とインスタレーション。単純にスペース的、質感的にもっとも見応えがあった展示だけれど……うん、でも僕にはよくわかんなかったよ……。ごめんよ……。またいつか何か俎上にのせて考えてみたいので今回は略。
 
 個人的にもっとも見どころがあったのは、毛利悠子の「fort-da」は、この展示のために作られた新作。しめ縄やアコーディオンが輪切りになった白樺の回転によって移動したり音を奏でたりする優しい工作である。木製を基盤とするそれは、名付け得ない生命性というよりも、なんとなく言葉にならない心優しさを感じる、すてきに意味不明で多幸感あふれる展示であったが、これらの「名付けられなさ」はコンセプトとした先鋭性とは異なり、懐かしい図画工作の素朴さを感じた。
 「アノニマス・ライフ」展では、このようにコンセプトを忠実に守るではなく、多様な生命のあり方を提案するような展示にしたことで、各作品が持つポテンシャルを分散化させてしまったように思われる。

  • 魅力を見つけ出す。

 そうした中で、魅力の再発見となったのが「やなぎみわ」の2つの写真だ。1997年の作品に新しい光を与えられてより一層魅力的に思えるようになった。無機質な空間に、無個性な女性的な存在を配置するエレベーターガールシリーズを制作しはじめた時期にあたる作品は、たしかにいまだに「名付け得ない」何者かを指し示していたのだろう。やなぎみわが写真の中で扱ったテーマは、匿名性、無名性、ジェンダー、エイジング、暴力……それらを統合していく概念はまだ提唱されていなかったのではないか? このような光のあて方として「アノニマス」であるという評価は新しい可能性を開くかもしれない、と感じたが、ではそれはなんと名付ければよいのだろう?

 他に、ホームページやチラシには見えないが、サイレント映画メトロポリス」で人造人間が生まれるシーンの放映や、義足のアスリートのビデオ、グロテスクな中世の版画なども展示されていた。むしろそのような物にこそ「名付け得ない/名付けられなかった」生命の可能性を見たのは、僕だけだったのだろうか。

 昨年11月から3月3日までの開催です。




開催要旨(ICC ONLINEより)
http://www.ntticc.or.jp/Press/2012/9/0928_01_j.html

アノニマス・ライフ 名を明かさない生命
会期:2012年11月17日(土)―2013年3月3日(日)
会場:NTTインターコミュニケーション・センター [ICC] ギャラリーA

  • 開催概要

会期:2012年11月17日(土)―2013年3月3日(日)
会場:NTTインターコミュニケーション・センター [ICC] ギャラリーA
開館時間:午前11時―午後6時(入館は閉館の30分前まで)
休館日:月曜日(月曜が祝日の場合翌日),年末年始(12/28―1/4),保守点検日(2/10)
入場料:一般・大学生500円(400円)/高校生以下無料 ※()内は15名様以上の団体料金
主催:NTTインターコミュニケーション・センター [ICC]
住所:〒163-1404 東京都新宿区西新宿3-20-2 東京オペラシティタワー4階
   京王新線初台駅東口から徒歩2分
お問い合わせ:フリーダイヤル 0120-144199
E-mail:query@ntticc.or.jp
URL:http://www.ntticc.or.jp/

展示概要

匿名の,名前のわからない,個性のないもの.アノニマス(anonymous)とは,そのような意味を持っています.ギリシア語の接頭辞an-(〜なしの)にonyma(名前)が組み合わされて,「名前がない」を意味しますが,展覧会の作品はそれぞれに題名がつけられていて,名前がないわけではありません.では,「名前がない」とは一体どういうことを意味するのでしょうか.
 例えば,ロボット工学の一部では,テクノロジーの発達に後押しされ,「機械の生命」を作り出そうとしています.しかし,その成果物の多くは,私たちがSFなどに夢見る理想的なアンドロイドからすれば完全なものとは言えず,それはアンドロイドと呼ばれるひとつ手前の存在,名づけえぬ何ものかなのです.また,遺伝子操作に代表されるバイオ・テクノロジーやクローン技術などの生殖医療技術の急速な発達は,私たちがその本質を理解するよりも早く,名づけることのできない,もうひとつの「生」のあり方を現実のものとしてきました.
 この展覧会では,そのような名づけることのできない生命,本当の名を明かしていないものたち,「アノニマス・ライフ」ということばを手がかりに,機械と人間を分かつ自明であったはずの「生」の意味を問い直すとともに,テクノロジーの進歩が新たな光を当てたセクシュアリティアイデンティティの問題をはじめ,私たちの社会の中に遍在する多様なゆらぎ,境界,そしてその侵犯をめぐる作品を紹介します.