想い風と二次創作

 
 前回では東方の世界観に対する違和感を感じるという人の話をしました、、っけ?
 軽妙洒脱な原作のトークに対して、「想い風」のシリーズが提供する世界観はあまりにも折り目正しく誠実で、その分重たいとさえ思うかもしれません。

 Earlgrayが描く東方のキャラクターたちは、みな心の奥に傷や温かみを抱えています。彼女たちの内面について、とても真摯に、真剣に考えているのです。キャラクターの内面なんて所詮は消費されるだけのものだと思う人もいるかもしれません。そして、それはそうなのかもしれません。けれども、幻想郷という僕たちが生きることのできない場所で生きる人々(妖怪や神様も!)が、幸福に生きていけるような物語を生み出すことはまるで祈りや信仰のように強い物語だと僕は思います。

 「唄う星」では諏訪子の内面が作品の舞台そのものになります。諏訪子の造型云々をいうではなく、彼女が神として世界にあるそのあり方をEarlgrayは問い直しています。「天の海」から続く、現実世界から幻想郷への神々の移山というテーマの中で、残してきた人々や世界に対する思いを吐露する場所を設けること。そのような舞台そのものを用意することは、東方二次創作のマネジメント的な性格とはまったく無関係にファンにとって、そして幻想郷に移ってこなければならなかった洩矢一家にとって、一つの救いとさえなっているのです。その意味で、Earlgrayの東方の解釈は、幻想郷が現実世界にとって――洩矢一家にとってがどのような場所で、そこで何を得たのか。Earlgrayの解釈は一つの回答を与えています。

 この回答は、ボイスドラマという形式をとる一つの理由でもあるかもしれません。これは近々梅田さんがどっかに書くかもしれませんが、「唄う星」は、ボイスドラマという手間暇のかかる、そして決して一人で作り出すことのできないメディアの、協同的な性格を象徴する物語です。祈りのように他者に期待すること、他者から期待されることを誠実に受け止めること。洩矢一家と幻想郷の愉快な仲間たちによる一連の物語は、ボイスドラマの世界そのものの象徴的なアスペクトですらあるかもしれません。僕たちはそんなふうに、つまり幻想郷で生きる人達のように、他人に何かを期待して、期待されていいのですってね。もっといえば、これは「同人」というレイヤーを楽しむ人達の性質なのかもしれませんね。

 それ以前に、もうとにかく諏訪子様がかわいいとか、早苗さんがグッジョッブとかそういう感じでも構いません。お暇があって、機会があれば、ぜひぜひ手にとって聞いてみてください。

アールグレイ・ブログ 
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