二つの終焉をめぐって。

きらきらです。

見ての通り『1Q84』と『ロスジェネ四号』を買いました。

贅沢な日です。幸せな日でもありました。

『1Q84』はまだ開いてないのですが、『ロスジェネ』を読みました。
 そして、大澤信亮の評論に圧倒された。まだこの国で、こんな強い質量の言葉が言えるのか、と。書き手自らをここまで追い詰める言葉を述べることができるのか、と。

 
 甘えた仲間内の批評やプロレスではない、まるで祈りのようでも懇願のようでも、絶望のようでも荒ぶる舞踏のようでも、そもそもそんな形容が入り込む余地も全く無い、大澤信亮の圧倒的な力強さで紡ぐ浅尾大輔論。


 僕はこれを読んで絶望し、嫉妬に狂い、少し呆けてこのブログを書いています。


 最終号のロスジェネは何かに成功していたり、何かを討滅したりした雑誌ではないと思います。未来を感じさせる雑誌でもない。過去にすがりついている雑誌でもない。これを評価することは難しいけれど、この中に書かれている言葉の質量を、感じさせてくれるものが、まだこの国の言語のなかにあるということだけが確実に言えます。その言葉に、何か激しく心動かされました。


 問題も山ほどある。大澤論は、果たしてそもそも評論なのでしょうか。それもよくわかりません。
 

文学フリマとロスジェネ

 
 そのロスジェネですが、今年の文学フリマの参加リストにはないようです。葬と一緒にでるかなとも思ったのですが、やはりいないようです。
 最終号を迎えるということはそういうことなのでしょう。単純に文学フリマにでる理由がなくなったのかもしれませんし、別の名前で出ているのかもしれません。

 ただ、僕は一人の文章系同人ファンとして(ちょっとだけロスジェネ&フリフリの愛読者として)、そのように活動して消えていく人たちのことを忘れないでほしいと思います。ロスジェネがどのような評価を後に与えられるのかはまだわかりません。そのまま終わってしまうかもしれないし、また新しい戦いを始めるかもしれない。政治的な立場や何かをすべて除いても、ロスジェネ最終号は素晴らしかったと言わざるをえない。 そんな本を作り出していた人たちがいることを、いまここにいないことによって忘れないでほしいと、なんだかFF10のエンディングみたいになってますが、そう思います。

 まとまってないけど、このへんで。