mrs.fictionsの演劇の続き。

 
 僕が小劇場演劇をとても面白いと思う理由は、演劇にはいまだ「強い批評的強度」があるからでしょう。
 公共放送による多くの作品には、道徳的収束が求められることが多いように感じます。テレビドラマなど、いちいちの例は挙げませんけれども、単純なハッピーエンドが求められるとか、あるいはいわゆるベタな作品に仕立てることを求められるとか。それそのものは作品の強度とは関係がないことですが、単純に小劇場という空間では、そんなベタさとは異なったルールが存在しているようです。ルール? ううん。テーマかもしれません。
 僕だってそんなにめちゃくちゃな数の劇団を見てきたわけではないのでわかりませんが、多くの劇団は面白いウェルメイドな作品を作るのでしょう。歴史的に強度あふれる演劇ばかりが多数をしめてきたわけでもないでしょう。
 具体的に作品をあげないで話をしても空しいわけですが、作品論は他日にまわして、今日は「はじめて演劇を見に行く」ことのハードルがなぜ高いのかについてあれこれ考えてみたいと思います。
 
 

 僕みたいな演劇を見るだけの人からすると、「劇場の面白さを広く伝えたい」と思ったとし、何ができるでしょう。ほとんど何もできません。せいぜい友達に「面白いから見に行けよ」としか言えないーような気が気します。その友達と「一緒に演劇にいってあげる」ことは出来るかもしれませんが、一度見た芝居を誰かを誘うためだけに連れて行くのは、金銭的なコストもかかるしリスクも背負わなければならない。なにより、自分が面白いと思っても相手が面白いと思ってくれない可能性はあります。

 そうすると、もうちょっとインスタントな手段としては「ブログで言及する」あるいは「コリッチで感想を書く」ことができるでしょう。

 しかし、今回僕が言いたいのはここの不満です。「演劇が面白かった! 誰かに見てほしい」と思ってコリッチ*1で書くとしましょう。しかし、コリッチはメカニズム=アーキテクチャー上「感想かレビュー」になってしまう。それ自体はむしろほめられるべきで、そうしたアーキテクチャを用意したコリッチの功績を称えるべきことです。
 でも「感想」や「レビュー」の基準は結局見た人が「面白かったか詰まらなかったか」の二択に収斂することが多いこともたしかです*2

 そうすると何が起こるか。
 まずある特定の「ウェルメイドでしかも笑える」作品が高い評価を得やすいということが起こります。あるいは人や役者が有名だ、という劇団も票をのばすでしょう。また、最初から期待値が高い劇団にも期待値が高くなります。小劇場演劇はリズール(精読者)が多く、高いクオリティのレビューも多いのですが、そうなると「分かりにくい」演劇をする劇団はどうしても評価が低くなりがちです。ウェルメイドな演劇ができる劇団が増えることは、新しいファンの獲得にはとても喜ばしいことでしょうが、異なる基準から作品の評価をしようとしても、コリッチのアーキテクチャでは明確な「☆による点数制」であり、総合的な評価として低いものになってしまうことはいくらでも起こりえます*3
 
 そんな風に単線化されてしまう作品の評価を複線化する。こういう営みを批評といいますよね*4?  演劇の批評の現場のひとつは、間違いなく「ブログ」でしょう。小劇場演劇に関するブログでの論及は、相当数作品に関する「批評」です。非常に面白いコメントもあるのですが、そこにはコリッチのアーキテクチャでは、批評がなかなかやりにくい。コリッチのコメント欄は「公開」と「ネタバレ」に分けられ、「ネタバレ」には「筋や伏線に関すること」を書くことになっています。ネタバレに触れないで作品を批評することはたぶん不可能ですし、そうすると、「批評という営為」は上演終了後にしか発生しないことになります。
 しかし、コリッチのアーキテクチャはデイリー単位で動くため、上演終了後の作品がランキングにずっと並んでいることはありません。すぐに消えていってしまいます。これはpixivからニコニコ動画にいたるまでほとんどそうです。有意義なシステムだとはいえ、批評をやるものにとっては、非常にやりにくい。
 このようにコリッチ中心主義での言説の形成をモデリングすると、こういう風になるのでしょうか。

上演前の演劇 → 期待値*5
上演中の演劇 → 感想がで始める。(ネタバレなし多し)
上演末期の演劇 → 感想、トラバなどでブログの論及が増える。
上演後の演劇 → 感想、送れてブログなどで長文の批評が掲載される。ネタバレも増える。

 これらの流れの中で、「批評」が「上演」に割り込んでいくためにはかなりの速度が要求されます。しかもネタバレなしでとなるとほとんど無理です。また、演劇は一回一回違うものなので回ごとの出来の「差異」が大きいものも小さいものもあるでしょう。
 演劇が水物であるとするなら、この構図はかなり妥当なものであるといえるし、在る程度大きな劇団はこのサイクルの中でも相当の動員を行えます。しかし、小さいサイズの劇団が評価を得るのは、評価を得た演劇が終了したあとの言説によって、という状況は望ましいものではないように思われます。
 
 そこで、上演が終了した後であってもその演劇にはアクセスできる回路を設けておいてほしいわけです。具体的にはDVDやCDなどの固定化されたオブジェクトに記録として残しておいてほしい。もちろん、画面越しに見る演劇は小劇場で見るものとはまったく別物ですし、そこですべてが論じられることについては問題もあるでしょう。
 それでも、そうした固定化されたオブジェクト――記録があるということの意味は、少なくとも遅れていくことになってしまう強度のある批評にとっては、その言説がきちんとリンクする先があるというだけでとてもありがたいことです。

 もう一つは、観客についてです。今年のW大学祭で『24時間耐久ゴドー待ち』をしていたのですが*6、そこは「好きなときに出入りしてください。携帯電話を使って話とかしてもいいです。舞台上の椅子とかに入り込んでもいいです」(意訳)ということがあり、舞台上の経緯をツイッターで勝手にTSUDAってました。そしたら、けっこう面白がってくれたんですね。
 あ、だからなにって話でした。だからまぁ、ツダれるお芝居をやるってのは面白いかもしれませんよ、という提案です。実際、テレビ番組もそれ自体を「ネタ」として、2ちゃんやツイッターの実況で楽しむケースもたくさんありますので。

 要するに、小劇場劇団に言いたいのは、外側に向けてアウトプットするオブジェクトがあれば、言葉をつかって何かをする人たちは何かできますよ。ということなのです。実際に劇場の内部にまでこないとわからないことは、劇場の内部に引きこんでからでも考えることができるだろうと思うのです。

 繰り返しも含みますが、小劇場にどうやって人を呼ぶのか、という問題が僕にとって重要なのは、小劇場というのが、劇団でも劇場そのものでもなく、それが一つの祝祭的なカテゴリだからです。小劇場という言葉を「文学」だったり「同人音楽」だったりに入れ替えれば、僕が二年間やってきたことと、その問題意識はほとんど通用しているといってもいい。祝祭的なカテゴリに、そのマツリが行われる現場に、どうやって人を呼べばいいのでしょうか。特効薬はないかもしれませんが、遅効薬なら、みんなで作ることができるんじゃないかって気がしています。

*1:CORICH。登録すると毎日MLが届いて、どの劇団が人気かデイリー単位で届きます。一度登録されることをオススメします。http://stage.corich.jp/

*2:今は、レビューが実際に動員に効果があるかどうかは、別の問題としておきます。

*3:それが現実だ、という立場もあるでしょうし、コリッチには外部のブログのトラックバックを受けることができることも付言しておきます。

*4:いろいろはしょりましたが、そういうことにしておきます。

*5:劇団の工作も含めます。やってるところないと思うけれど。

*6:芝居の内容については今回は触れません。