同人文芸についてあれこれと、同人文芸からどこかへあれこれ。

 「同人」の独自的な価値はどこにあるのでしょうか。夏、冬と行われるコミックマーケットに参加したことで、少しぼくはそんなことを考えるようになりました。コミックマーケットはよく「オタクの祭典」と言われますが*1、参加者はむしろ「マニア」であって「オタク」ではない*2、という人達も多く参加しています。たとえば、三日目の批評ブースの近くには「法律」というカテゴリがあり、そこでは多くの人が「国際法です!」と叫びながらものを売っていました。また、英語の漫画教材も売ってましたね。そういえば。

 前回冬のコミックマーケットでは、同時開催で「超多様性市場としてのコミケ」というテーマでシンポジウムが開かれました。残念ながら見に行っていないので、内容について何かをいうことはできませんが、「超多様性」という言葉は、まさにあの会場に並んでいるときさえ納得できるものでしょう。

 前回のエントリで、秋葉原市庁舎の、二階と一階との温度差を僕は「何かを象徴しているようだ」と形容しました。何を象徴しているのでしょう。
 それをを一言で、簡単に言うことはできません。そのための準備が、まだできていません。けれども、その感じはなんとか減らしたいと思っています。コミティアが、超大手とそれ以外の二極に分離しつつあるという話や、文学フリマを「サークル打ち」で来ると宣言する批評家の言葉を悲しく思うのは、どこかで「人が集まるイベント」がただの書店や珍しいものが買えるだけの場所になっているような気がするからです。

 多くの人があつまるのだから、そこにはお互いが許しあえないようなことも、敵対することもあるでしょう。
 けれども、まだここにはコミュニケーションが足りない。お互い仲良くしろとは思わないし言えないけれど、インターネットで同人誌が買える/見れる社会の中で、「人が集まること」の意味を考えなければならない、と思うのです。*3それはある方向に行けば教育の問題だろうし、別の方向では「オタク論」の問題圏でしょう。別の人たちにとって文壇の衰滅を象徴する事態であるかもしれません。

 一時期ネット論壇(?)で文学フリマの独自価値とは何か、どう在るべきかについて議論が交わされたことがありました。具体的にどのサイトで、という挙げ方はしませんけれど、ごく個人的には同人文芸は、ある同じ価値を共有する集団にはなりえないと思っています。多様な考え方をもつ人達が、漠然と「文章(文学)」の名前のもとに集うことができれば、それでいい*4
 だから、同人文芸はまず、仲間たち――文章や批評や小説や活字や、本や何かを愛する人達に――届く活動をすることができます。でもその一方で、もっと広い場所で自分たちの戦いを繰り広げることもできるかもしれません。そして、僕は後者の戦いを選びます。
 ぼくは最近、同人音楽(まだまだ疎い)の人達が「語彙が足りない」という悩みを抱えていることを知りました。(同人音楽.bookプレ版参照。もしかしたらどっかのサイトでまだ買えるかもしれません。)そのツテで、同人音楽.bookには文芸同人の人として参加したのですが、文章から音楽へ、音楽から演劇へ、あるいはもっとそれぞれがそれぞれの技術を必要とする何かへ手を結んでいくことはできるかもしれないと思っています。

*1:考えてみたらどこでそういうフレーズが生まれたのでしょうね

*2:このカテゴライズは東的かもしれません。このあたりの範疇について細かく詮議するのは別の機会にまわします。

*3:そういえば、前回の文学フリマで「アーカイブ騎士団」さんのブースに行ったとき、隣で表紙だけ手作りしている(たぶん「なにもない空」さんだと思われる)の本を買ったんですね。そのとき、表紙は紙は同じなんだけど、その場で適当にタイトルつけていたからタイトルは全部違うんです。全部別の本だと思ったんですが、全部実は一緒と聞いて「蒲田後進国」というタイトルの本を買ったんです。そしたらなにもない空さんが「それじゃ、蒲田後進国もう一冊作ります」って言った瞬間、アーカイブ騎士団の人が「同じタイトルは禁止。これからずっと監視してます」といったんですごい笑ったなぁ。

*4:マーケティングやWeb2.0……というよりなんちゃら2.0の流れの中で、文章が全世界的な文化の中でどういう位置を占めるのか/パイを広げられるのかについて、もうちょっと大規模且徹底的なことも考えていますが、それもまた別の機会に。