ゴーストニートペアレントを一月ぐらい前に見てきた感想とか。

1

ゴーストニートアレント

高円寺駅を降りて、四丁目カフェがある坂道を下る。古着屋、坂道に隠れるように、スーパー。自転車、おばはん。喫茶店。……それらを見ながらの、考え事。
考え事、と書いていてこの言葉はあまり適切ではないかもしれない。何を考えているのか明確にできるほどでもない、ただの頭の中にあるモヤモヤした気分の塊を少し正方形に揃えるだけの作業で、そういうのはなんていえばいいんだろう。
息を吐くと白い。疑問は、その白い小さな霧にまぎれて消えてしまう。

僕の知っている二人の人は、そういう呼吸の思索が好きだったときく。一人は今この文章を読んでいる君たちには関係のない人物。
もう一人は、Iという早稲田で活動していた演劇人の一人だ。

今回の作者本介の芝居はやばいよ、とIはいった。僕は聞く。「やばい、という意味はどっちだい? すばらしい、という意味なのか、それともだめだ、という意味なのか。」

Iは笑う。

両方さ。といって。



高円寺の明石スタジオは、「昭和」の空気を煮詰めたような雰囲気を漂わせる、こじんまりとして落ち着いた劇場だ。開け放したドアからの風が寒い。窓からの隙間風も寒い。

僕がついたときには、もう受付はできあがり手持ち無沙汰の受付係が人を待ちわびていた。
劇場に入ろうとすると「5分ほど押していまして」といわれ、制止された。まるで、必死の子供みたいだ、と受付係の女性に失礼な感想を抱いた。

待ち合わせ室で少し時間をつぶす。
壁にかけられたポスターの色のくすみや、色とりどりの背表紙――台本だろう。それらが時間を忘れて書棚で佇んでいる。
ストーブ、大量の壊れかけた傘。
僕より先に来ていた数人の観客は、手持ち無沙汰に、少しだけ寒そうに床をながめていた。

受付が声を張り上げる。
「準備が整いました。整理番号の順番にお呼びいたします」

整理番号六番の僕は、のろのろと客席へと向かう。小劇場の観劇は、奇妙なプレッシャーを感じさせて、それが、まるで、悪夢のように心地がいい。



作者本介の芝居は、問題意識の共通する、二つの感性によって成り立っていると思う。

一つは巨大で不可視の権力に戦いを挑む、という好戦的な感性――自らの劇団のポリシーを「やる気がない」であると喧伝し、資本主義や労働、教育の不平等といった社会的な権力から、物語そのものにまで、揶揄ではなく直接戦いを挑むその姿勢――。それは「間違いなく負ける」戦いを行うという無謀な営みだ。

作者本介の芝居は、そうした戦いを「誰が、何を奪うのか」というモチーフの中で表現することが多い。

前々作「無抵抗百貨店屋上遊園地」では、NEETの光を消していく警察のヘリコプターの爆風に象徴されていた。待ち焦がれていたはずの何か(遊園地の屋上に飛来してみんなを助けてくれるはずのヘリコプター)が訪れたときに大切なものをすべて消し去ってしまうことに表現され、前作の「大怪獣サヨナラ」では、絶対こないでほしかったはずの何か(怪獣サヨナラ)が訪れたときに、それがある種の救いすらを持ち合わせていたことに表現されている。

「奪うこと/奪われること」の葛藤のなかで、何かを与えようとするものたちの、暴力性をあぶりだすことが、ジエン社の演劇だ。

もう一つの感性は、驚くほどナイーブな「生きること」をめぐる感性だ。ただ単に生や死をめぐる問題だけではない。物語の「作者」として物語を作り、登場人物たちを殺し舞台から消し去るという「フィクションの生死」を操る【物語の神】の倫理をめぐる問いかけだ。作者本介が舞台に立つとき、それは「作者」という特権的な地位を保持したままの役者として、彼は舞台に立つ。あたかも物語の必然に導かれて登場したかのように、作写本介は振舞う。そして、神の特権を持つことの罪を贖うように死に、あるいは舞台から去っていったのだった。

 

 ゴーストニートアレントの舞台はこうだ。
 どこかのアパート、翌日には取り壊されるが、住民はだれもそれを信じていない。ていうか、引越しの準備をしていない。物語はそんな状態で始まる。
 
 タケオはマヒルを看病するために働いていない男、彼の部屋が劇場のセットだ。
 舞台上手脇にキッチン、奥にドアがあって外にでれる。奥下手は白い壁だけれど、壁には隙間があって、そこからマヒルが寝ている部屋が見える。客席からはマヒルのベッドだけが見える。登場人物は14人。役者も、14人。あと、観葉植物。
 
 客席側にはコタツがあり、ちゃぶ台の上に雑多に並んださまざまな小道具。コタツの下手には棚があり、その下に人間が入れる隙間がある。住人の何人かは、移転反対の運動を行っているけれど、それはどうも思い出作りでしかないらしい。
 舞台が明日取り壊されるアパート……崩壊の前夜を示しているように、その人物たちも何かが壊れる直前で生きている。マナはマヒルが死んだらタケオの恋人になる予定だけれど、まだシンイチと付き合っている。シンイチはマナの彼氏だけれど、浮気していることを知っていてそのために堀越学という探偵を雇っている。堀越学は探偵だけれども、すぐ秘密を他人にしゃべるし軽薄で猫好きで、シンイチにやとわれていることを主治医先生に話してしまう。主治医先生は医者のコスプレしてるだけの女で、主治医先生を何も守ってないけれど平和を守っていると思いこんでいるミラーマン(本名は三浦さん)に守られている。ミラーマンはスガヤというアパートが壊れたら次に立つ予定の墓地管理会社の社員をいじめている。スガヤはマツイさんという墓地建設反対運動をしているけれど、ただの思い出作りをしているだけのマツイさんとコミュニケーションしたいけれど、失敗している。マツイさんは、ウタなんてどうでもいい。ウタは殴られすぎで自分が何者なのかよくわからないロックバンド少女で、ネコタイと一緒にいる。ネコタイは、ネクタイをした猫。それとエムオカというマヒルの叔父と、ヤノベというエムオカの秘書はあんまり関係ない。

 ゴーストニートアレントは、マヒルという重病に犯された少女が死ぬのを待つ話だ、とまとめてしまうのはあまりにも強引だけれど、一つの理解の仕方としてはそれでいいと思う。タケオは余命一年であったはずのマヒルが三年間生きてしまったことで働かなくなり、そしてマヒルが死んだあとのことを考えるためだけに、どうやらほかの女たちに告白しまくっていたらしい。そして、その告白はアパートの住民たちにはそれなりに堪えたものだった、のだろう。マナは次の彼女になる予定だし、マツイさんは振ってしまったし、主治医先生はミラーマンに思われているけれど、でもタケオのために、マヒルの主治医のフリをする。
 他者に与える影響は、でもコミュニケーションにまでは至らない。この舞台空間で行われるのは、ディスコミュニケーションと、無視と、そして通じない、というつぶやき。それでもなお影響を受けてしまうという、そういう曖昧なやりとりばかりだ。

たとえば、前半のハイライト、ミラーマンとスガヤのこんな台詞の応酬。

ミラー「マヒルちゃんを見ろ!」
スガヤ「はい!」
ミラー「マヒルちゃんはなぁ、生きているのだ!」
スガヤ「はい!」
ミラー「こんな病気になってもなあ、生きているのだ!」
スガヤ「はい、マヒルさんは生きています生きています!」
ミラー「人間は100%死ぬだと、100%死ぬだと!」
     
(中略)

スガヤ「でも、……こういうと、絶対怒ると思うんですが……人は、死ぬんです」
ミラー「死なない。まひるちゃんは生きてる」
スガヤ「いつかは、です。いつか。死ぬんです。人は、必ず。その時のために、お墓やお葬式は絶対に、必要なものなんです」
ミラー「でも、生きてるじゃないか。マヒルちゃんは、現実に」
スガヤ「いや、でも」
ミラー「君は、現実をみてないから、そんなフィクションの話ができるんだ。私たちは、マヒルちゃんたちを通して、なんか、命の大切さ的な、なんかそういう感じの、なんか、そういう感じなんだよ。私はいままで、不治の病の人を見たこと無ければ、不治の病の人が生きているところなんて、見たことも無かった」
スガヤ「……あのウチ、葬儀屋なんで、あの、毎日葬儀ですから、あの毎日見てるんですけどなんかそういうの」
ミラー「だめだ」
スガヤ「ええ?」
ミラー「そういうふうに毎日、現実から目をそらすから、そう感じるんだ。そんな仕事とかしてないで、現実を見ろ。現実を見ろ。マヒルちゃんを、見ろ」
スガヤ「……はい」

このミラーマンとスガヤの応酬がどことない微笑ましさと、しかし埋めがたい溝を越して行われていることが、悲しい。
ゴーストニートアレントが「ベタとの戦い」を標榜して行われた戦争であるなら、それは、「なんとなく通じてしまうに違いない」コミュニケーションを拒絶して、届かないに決まっているし、よけい悪化するに決まっているんだけれど、それでもなおシグナルを送り続けることをめぐる思索のせめぎあいになる。死んでいく彼女と、生きていくに違いない彼氏の、通じてしまう「愛」ではなくて、コミュニケーションされない言葉。誰にも通じない独語。だからこそ、何にも交換されない強い言葉。強さ。

 観客は思う。
 
 でも、それに、意味なんかあるのか? 


 そしてミラーマンはなんか脈絡なく死ぬ。

 死んでから、またなんか舞台にたつ。

 そのときのミラーマンは、幽霊なのかなんなのか、誰も説明はしてくれない。彼の独り言。

ミラー「民主主義に敵対する暴力を行使したために死んだ男の責任を取らなければならないのは誰か? 暴力を行使した死者なのか? 何もせず傍観していた僕たちなのか? いやそもそも対話を元とする民主主義の原理を忘れて暴力に走ったもの全てが悪いのか? それともこんなことを考えるのが面倒なら、忘れてしまえばいいのか?」


 ウタは主治医に聞く。

ウタ「先生がミラーマンと話しているとき、どんな会話なん?」
主治医「……いつもなりたたない」
ウタ「あ、そう」
主治医「正義とか語られる」
ウタ「ヘー」
主治医「いつもなりたたない」

いつもなりたたない。なりたたないものは、交換のしようもない。成り立たない会話。成り立たない死、成り立たない生活。それでもなんとかなっているものが、何にも成たたなくなっていくドラマ。それは、ドラマとしての構造そのものも揺らがしていく。成り立たなくなる=あいされなくなる猫=マヒルのメタファーがその揺らぎを象徴する。

ドラマは進み、均衡はどんどん崩れてゆく。ウタの彼氏は死んでることがバれ、ミラーマンはありもしない火の海に向かってどっかいってしまう。

そして、マヒルも唐突に死ぬ。

4

探し人が現れるのは、その次のシーンだ。彼は何の脈絡もなく現れて、何の脈絡もなくまくしたてる。

探し人「猫を、探しています、あの、猫の」
ネコタイ「はあ」
探し人「(挙動がおかしい)ただの猫じゃないんです。あの、こう、いま一軒一軒回ってるんですけど。あのしっぽを、切られたみたいで。……すごい、っかわいそうなネコなんです。この辺で、ずいぶん、尻尾きり事件、昔、多発して、その中に、ネコ、あの、ひとつ、く、首輪をつけた、ネコ、いたと思うんですけど、ネコ、あの、ネコ。あの尻尾のない。かわいそうな。僕、ネコが、かわいそうでかわいそうで、もう、いてもたってもいられなくて。……二年、行方不明になって、今、どうしているか、こうして、なか、探していて。僕の、大事な……ネコなんです。あの、ネコって尻尾がないと、平衡感覚がおかしくなって、生きて行けないんですよ、だから僕がきちんと面倒見ないと、愛してあげないと」
タケオ「(部屋の中から)そのネコはもういませんよ」
探し人「はあ」
タケオ「もういませんよ。死んだんですよ。」

探し人が探している「ネコ」が、マヒルのメタファーであることは、(そのようにタケオが読んでいることは)明白だろう。探し人、が作者(作者本介ならずとも)の役回りであることも、観客にはわかってしまう。そして、同時にネコが、作者の探す「作品」のアナロジーであることも、たぶん正しい。そして、尻尾をなくしたネコが、作写本介が戦うといった「「ベタ」という「平衡感覚」から見放された存在であることもたぶん的外れな読みではない。


尻尾をなくしたネコは生きて行けない。

だから、観客はそれにこう問いかけることができる。


生きて行けないことを知りながら、尻尾を切り落としたのか、と。

タケオ「知り合いがそういってましたよ」
探し人「僕のせいですかね」
タケオ「あと、ネコに首輪つけても、だめだと思いますよ」
探し人「……(ネコタイに)見かけたら、あの、ここに、あの、ここに、あの、ネコの似顔絵描いたんで、あの、これを、見て。はい、なんか、それじゃあ」

探し人、去っていく。

ネコタイ「(渡された絵を見て)ぶっさいくなネコ。こんなんじゃ絶対誰からも愛されないよね」

身体をもった役者が、自らの役の不条理さをぶちまける。身体をもった作者に向かって、対峙する。
タケオの俳優は「知り合いがそういってましたよ」といった。その知り合いとは、お前自身ではないのか? 善積元という、俳優の身体が、役を一瞬だけ離れた言葉ではなかったか。
失敗に終わりそうな――失敗に終わりそうな作品に向かう作者の暴力の告発。それに、作者本介はあっさりと答えて見せた。


「僕のせいですかね」。

と。

6

作者本介は、ベタについて、インタビューでこんな風に述べていたっけ。

−日本の演劇界ってどう思いますか?

検閲だったり、役によってはライセンスが必要だったりする中国よりはましじゃないかなあと。中国って、内容によっては見つかったら捕まっちゃうわけだし。逆に、その中で逮捕覚悟でアンチテーゼとかで本気でやってる人はすごく面白そうだけど。狭い地下室で見張りとか立ててこそこそやるの。
日本はバイトしながらでも出来るから全然環境は恵まれてると思う。
ただ、現在面白いと思われていることにみんなが飽きないと面白くはならない気がして。ベタを疑いなく尊ぶ風潮、ベタ=面白いってことに疑いを持たないのはちょっと怖い。もちろんベタはベタの面白さがあってそれは分かるんだけど。

−ベタかどうかの基準はどこですか?

弾圧がないって状態のことだと思ってます。
サブカルチャーってよばれてるものも、最近は「サブカルです!」みたいにファッション化して大手を振ってる。自分の感覚が安全な感覚だと思えちゃってるのは、サブカルチャーとは言いたくない。それを含めて「ベタ」と呼んでます。
結局自分の感覚を安全だと思ってるような奴が嫌いなんですよね。
誰からも受け入れられる感覚って警戒した方がいいと思う。「エコ」とか。
「ゴミを分別している人がみんな優しい奴だとおもうな!」って。*1

たぶん、物語の創造主たる作者は、「自分の感覚を安全だと思っている」。少なくとも、登場人物から喧嘩を吹っかけられたり、殴られたり、殺されたり、犯されたり、もっと口にだしていえないようなことをされたりはしない。うん、間違いなくされない。ただ、作者は可能な限り、その作品世界の人物たちの「生そのもの」を認め、その世界そのものの幸福を願う、かもしれない。願わないやつはあっさりと「登場人物を殺す」それが、「安全な感覚」なのだろう。死さえも笑う安全な感覚に抗う。
 そのために、文芸の世界では、メタフィクションという技法で作者は自らを苦しめた。作品世界が、作者のいる世界そのものを飲み込もうとする戦略、あるいは、作者のいるこの世界がただの作品世界ではないかという疑問。作り出すものに作り出される倒錯。それらを「書くことそのものを題材にしたフィクション/フィクションであること/フィクションであることを自覚したフィクションとして、メタフィクションが生み出された」
 
ただ、その戦略は目論見としてはほとんど失敗し、技法としてかろうじて生き残る。
理由は単純。メタフィクションも方法として確立すれば、それも又安全なただの技法になってしまうからだ。*2

 2のところで述べた「作者本介の戦い」に絡めて言えば、作者がベタと闘う/そのせいでなんだか登場人物がやりきれなくなる、という倫理の問題をゴーストニートアレントでは扱っているのだ。
 ゴーストニートアレントでは事前に「これはベタと闘う」と宣言しまくり、そのためのあらゆる布石を事前に打ちまくり、それをさらに当日の舞台でパンフにして喧伝したことで、ようやく、その戦いが開始されていることを僕たちは知ることが出来る。作品をただ見るのではなく、それがどのような意図の上にのっており、どのような背景をもった舞台なのか事前に知っておくことでようやく、作者は「ベタ」とは闘えるのだ。ただ、作者本介はそのための手法で「メタ」に頼ることをたぶん、あきらめている。だからこそ、作者と舞台と俳優と役が、舞台上で直接対決するということを選んだ。作者、ではなく、作者としてしか読めない一人の俳優として。
「僕のせいですかね?」こんな作品になったの。タケオが苦しい理由。マヒルが死んだの。ミラーマンが意味わかんないの。ネコがみつからないの。それにタケオは答えない。ただ、「ネコに首輪をつけてもだめだと思いますよ」というだけ。なんで? どうして? そんなの簡単。作者本介がどれだけ「首輪」をつけても、物語そのものと物語の中に生きる「生そのもの」はお前のものでも、観客のものでも、ないのだから。そういう風に「作者」が作ったんだから。

 「僕のせいですかね」

 その言葉が発された瞬間。僕は観客の一人として、それはまるで嵐が吹きあれる直前の恐怖に見舞われた。
 次の瞬間には、彼らがいままで培ってきた全ての「関係」をかなぐり捨てて、ただの獣ののように殴りあうのではないか。作品のなかの「生死」(なんてくだらない!)をめぐって、作者と、作中人物であることの誇りをかけて殴りあうのではないかと疑ったんだった。
 手が痛い。と爪が食い込むほどの激痛に耐えて、その瞬間を望んだのであった。

 そして、ネコタイがあっさりとその緊張を毀してしまう。「誰からも愛されないよ」といって。そうだろ、と観客にその声が響き渡る。

…… 「聞きたくないんでしょ。愛したくないんでしょ。こんなお芝居。くだらない」

 その意味で、観客は作者と、共犯なのだ。其の物語の「生そのもの」を、面白いかつまらないか、あるいはもっとくだらない判断によって「殺して」しまうことになんの呵責も抱かないんでしょ。と。読み手のために、物語はあると、あなたたち観客は傲慢に思い込んでいるんでしょう。と。

 ……端的にいって、ベタと闘ったシーンはまさにこの瞬間だった。シチュエーション、人物配置、物語の展開。具体的な敵としてあげたセカチューへの意識は全編を通して見えるのに、それでも最後はまるでセカチューのように終わっていった。嵐が吹き抜けていくような圧力の中で、マヒルが生き返った可能性に少しだけ接近して、それで終わる。その終わりは感動的なものだった。タケオが、生そのものの対象として、マヒルの生存を信じていたことに僕は感動したし、観客もまた、部屋のなかに閉じこもった女性めがけて絶叫するタケオの凄まじさに気おされただろう。
 けれども、そこで起きた感動は季節外れの桜が呼び込んだ周回遅れの生によるものだったと思う。けれどもそれはやっぱりどこか「作者本介のベタ」ではなかったか。作家が持っている才覚の中の、「鉄板な」部分ではなかったのだろうか。

 ベタと闘うあまり別のベタにからめとられてしまった印象。それは「ベタと闘う」。「生そのものが、そこにあると信じて」。そのコンセプトが、結局は別種の「ベタ」の中でしか回収できなかったことを、たぶんゴーストニートアレントは示してしまった。というよりも、これはもっとひどいことなのかもしれない。物語の生そのものは、ベタな枠組みが全部説明してしまったんだ、という風にも受け取れてしまう。

 僕は俳優たちの一礼に拍手を送って思った。あ、負けてしまったんだ。と、作者本介の戦いは、またしても負けてしまったのか、と。
 

*1:elegirl.com[interview]作者本介(ジエン社) 「やる気なく闘う演劇」http://elegirl.net/interview/16/4 

*2:そういえば、諏訪哲史という作家もそんなことを言っておった。言っておったが、諏訪さんの話はまた別の日にでも。