それと、そのほかのこと。

コーヒーを飲むことはチェスの比喩では説明できない。口元に水を運ぶという仕草みたいな自然さで文章が書きたい。ある人たちは、自分たちが好きな物を紹介するために「言葉」に頼らなくてはならないことにいらだっている。それが「レビュー」という制度化されたシステムの暴力だとしても、好きだという気持ちをダイレクトに入出力するツールとして言語はたぶん最低に近いポテンシャルしかもっていない。


今日はべつに言葉とか言語とかをめぐる七面倒なことが書きたいわけじゃない。ただ僕は、お茶を飲むように自然に何かを為したい――あるいはお茶を飲むような動作は、もしかしたら不自然な行動なのか?――、あるいは、何かを書きたいのだろう。


夜、パソコンの前に座る。昼間に思いついた小さな喜びや小話、どうでもいい噂や講義のネタ、世界征服の方法とかエロ漫画の断片的な原作、でなければ怒り、憎悪、不条理何もかもへと向けた憤懣やるかたない気持ちやなにかが全部キーボードに吸い込まれて消えてしまって、いったい何が書きたいのかわからなくなって「Delete」のキーをため息と一緒にプッシュする。そんな書き方ではいけないような気持ちだけが跡にのこって、真っ白いエディタの画面は食い足りない餌を催促するように、僕を睨みつけてくるのだった。


からしょうがなく、頭をつかって言葉をひねり出し、ひねり出た言葉が奇形であることに断念し、「Del」の海へとヒルコを流す。僕たちはそうやって自分から生まれた不完全なものを切り捨ててコミュニケートを図っている、のか? そうだとして、あるいはそうでなかったとして、それはいったいなんだっけ。

そうして僕はもうほとんど気持ちも枯れてきて、僕は何かをひねり出すことができなくなってきている。いくつかの談話や今日読んだ本の話や、駅であった面白い変態やなにか。その全てがどうでもいいものであったかの思えてくる。これはよくない兆候だ。

それでもこの「白い画面」がいうのだった。もっと文字を、もっと文字を、もっと文字を、もっと文字を。