続々。

続々と文学フリマ参加者たちの作った本が仕様公開されていますね。でも左隣のラスプーチンはまだ未公開です。

なぜなら、出来てないから。

ところで、今月の『新潮』は新人賞の結果発表でしたね。飯塚朝美さんという、僕より一才年上の女性が取られたようです。

新潮 2007年 11月号 [雑誌]

新潮 2007年 11月号 [雑誌]

「クロスフェーダーの曖昧な光」タイトルの微妙さやなにかはここではどうでもよいことです。

 小説は審査員に酷評されていますが、僕はそんなに悪くない印象を持ちました。
 あらすじの紹介はくだくだしいのでやめますが、たしかに膨大な本を読んできた審査委員たちにとってはどこかでみたような文学っぽい擬似文学にしか見えない所があるのかもしれません。テーマも未熟で光のモチーフの生かし方もうまくもあるけれどクドい。けれども、明快な対比構造や照明係という職業、真っ暗闇でないと生きていけない兄との生活や家族への軽蔑、神学を志したこともある仕事場の社長、魅力的な人物が溢れていて、物語性に富み読みやすく、すっと頭に入る明晰な語り方は文末処理の未熟さによる「堅さ」を割り引いても十分評価できると思います。
 純文学としての複雑さを最低限しかもっていない小説だからこそ、これが「もっと面白い小説であれば、この作者の作品を次々に読んでいってもいいな」と思わせるつくりの作品ですし、だからこそ、ちょっとがんばれば高校生でも「かけそう」なところもポイントが高いのです。(いやみではなく。)

 主人公は三島由紀夫の『金閣寺』を読もうとして結局読めないのですが、その理由が今ひとつさだかではありません。ここが面白いのです。仕事で舞台の『金閣寺』をやるので、その照明を任された主人公はしょうがなく古本屋で『金閣寺』を買うのですが、そのままブックカバーを破り捨ててコンビニのゴミ箱にいれ、読み始めるものの結局読めずに挫折してしまいます。

 これは物語の展開の上では重要なシーンでもありますが、それ以上に不可解なシーンでもあります。なぜ『金閣寺』なのか。なぜ、読めないのか。
 
 後者の問いの答えが、はっきりいってよくわかりません。ようするに「普段本を読まないから」読めないのだと、それ以上の理由はないように読めます。
 このくだりは選考委員も噴飯したらしく、数人がこの『金閣寺』の象徴的な、あるいは物質的な扱いをめぐって非難をしていますが、だからこそこの「普段本を読まないから読めない」だけの主人公には強いリアリティを感じ、一方でかぎかっこつきの文学の立ち場を明確に示す状況もないなと思わせるのです。

 『金閣寺』は薄い話ですが、難しい話ではありません。とここでの「難しさ」の基準はあくまでも僕なのですが、「普段本を読まない人」にとってはそうではありません。普段本を読まない、というさらりとした言い方には、主人公が三島のようなかぎかっこ付き近現代文学というものから遠い場所にいて何一つ困らないのに、それでも文学的素材になりえてしまうことを示しています。また、ここには文学との出会いに失敗した男の貴重なワンシーンが記されているわけです。

 このときの『金閣寺』は仕事であるからしかたなく読む、というカタチで主人公に振ってきます。しかし、主人公には『金閣寺』を楽しんで読める感性がないようですし、また教養にも乏しいのかもしれません。端的にいって、『金閣寺』は主人公の趣味に合わなかったわけです。それでも、趣味に合わずとも仕事であれば、あるいは何かのメッセージが主人公の問題意識と絡めば、このような書き方にならなかったように思われます。
 主人公にとって、『金閣寺』とはそのような体験を得る相手ではなかった……。ということで処理されてします。物語全体からすると一件無駄/非有益なエピソードとして金閣寺の読書の失敗が入り込むわけです。が、だからこそこのような読書の失敗が――あるいは金閣寺の敗北が、ものすごくリアルに響いてくるように思うのです。

 物語の読書のシーンには、本を読んださい、少なくともそれが「ダメ」であるか「感動する」か、その本に対する評価によって「主人公の何かが変わる」ことを読者に期待されています。しかし、この小説にはただ読もうとして失敗した、とさらりとそれが通り過ぎただけです。この通り過ぎ方のリアルさは物語が消費にすらならない一つの不明な情報として処理されたことを意味するのだ、と考えることができるのかもしれません。

 ちょっと変な言い方に言い換えると、実存に届かない文学作品の処理のされかた、なのです。

 やや繰り返しになりますが、その意味で、このシーンは主人公の人生に読めないということで影響を与えないがため(社会的、間接的な影響はありますが)主人公の教養と趣味を何も変えないものとしての文学を表現しているのです。こうした話をさらりと挟み込んでくる作者の「センス」に年が近いからかもしれませんが、妙なリアリティを感じますし、『金閣寺』という小説から距離をとりながら、その距離を埋めるものが読書体験ではありえないという、文学に参入する難しさを描きえたのだと思います。


話そのものはウェルメイドな印象が強いものですが、こういう話の入れ方は、文学がウェルメイドなものを嫌うがゆえにむしろ前提にしてしまう特権性(実存に届くんだよ文学さんはよぅ! みたいなの)を否定していて、それでもその否定がウェルメイドな路線とは違う路線で行えることがすごいと思うのです。
 
 上述のような視点は、あくまでも「クロスフェードの曖昧な光」の一部を切り取ったに過ぎません。全体のテーマや宗教的な主題の描き方に踏み込むとまた異なる視点が必要になるでしょう。小説としては、疵を上げたらきりが無いのですが、それでも一つの読みとして、新人作家を寿ぐ才能の発露の場所として、文庫を読み通せない主人公を描いたところを評価したいと思います。

 もちろん、ここには小説を通して文学の普及と有用性の確立を目指す僕たちの「みんな、文芸誌買おうぜ!」というメッセージがあることもいうまでもありません。

 ということで、新潮の小説読んでみてください。なんだか書いてるうちに何を書いてるんだかよくわからなくなってきたので、今日はこの辺でやめます。おやすー。