大構想
はじめに
- 前回、S.E.VOL2の企画を始めるにあたって、高円寺において簡単な企画案を出した。(高円寺企画案)*1しかし、今号のコンセプトとして提案した「リキッド」が、概念として曖昧すぎる、コンテンツとの関連に必然性を見出せないなどの指摘を受けたし、とくに表紙の製作サイドからもう少し具体的に描いてほしいものを指示してほしいという要求もあった。
- また、インタビューの説得材料としても曖昧であり、もう一度コンセプトの確認の意味も込めて、S.E.VOL2的なるものを考え直しておきたい。
コンセプトとコンテンツ
- コンセプトとコンテンツとの関連。生成されうる可能性と未来との連装。
- 「どのような理念」を「どのような表現」に結実させるのかが曖昧だった。
- ある種の曖昧さこそが、各人のイメージを増幅させる。けれども、そのような曖昧な想像力だけで作られたミニコミ誌は、二つの暴力をはらんでいないだろうか。読者を選ぶという点と、その曖昧さこそがむしろ想像力を減衰させる可能性とにおいて。
- 『S.E.VOL1』の時には、そもそもコンセプトすらないものを表紙を作る過程で、中心的なメッセージとして必要になってきたものが「テーマ」であった。
- 誌全体のコンセプト「はじめて出会う文芸誌」もまた、前号の段階では「売り文句」以上の魅力を持ちえていたかどうか。
- 今回は「コンセプトとコンテンツ」、つまり「理念と中身」の問題を、雑誌全体の雰囲気とからめて同人諸氏にも納得されやすいように考えてみたく、また雑誌全体の見取り図もできつつあるので、それを踏まえてどのように誌面を構想するのかをもう少し具体的に考えたいわけです。
メインコンセプト
- メインコンセプトはひとつ「ハジメテデアウ文芸誌」である。「はじめて、出会う」には二つの意味が込められているのだろう。
- 僕は二つのコンセプトを思っていた。狭義には「文学的なもの、文芸的な表現、文章によるコンテンツに対する魅力をどのように紹介、導入させていくのか」。
- もうひとつは、普段出会っている何かから、普段出会わない何かに引き合わせるという広い意義。雑誌のタイトルのサプライズドエンカウンターもそうした「出会い」をコンセプトとして表したかった。けれども、このコンセプトはやはり「既存の文芸的なもの」を想定しなければ成り立たないことも事実だった。
- その意味で歴史的な文芸の文脈に接続させるための入り口を模索する、というのが雑誌の方向性として当初考えざるを得なかった。
- そのなかで「ハジメテデアウ」にはもうひとつ、作り手側の僕らがどのように次に出会うべきものを探っていくのかの問いも含まれていきます。
- デアイを「用意」する傲慢さに抗って、出会うべき何かを模索していくこと。ひだらすが続くにせよ終わるにせよ、その模索の足取りが、同人たちに=読者たちに=文学というローカルな営みたちに受け継がれると信じたい。
シ的なものは、リキッドだ!!!
- 今回、インタビューのテーマが「シ的世界のインターフェース」ということで、もういっそこれをコンセプトとつなげてしまおうと思った。
- 今回のコンセプトはこうだ。
- 「シ的なものは、リキッドだ!!!
「シ的世界」とは、言語環境のなかで、特異に文学的な言語空間として設定した。じゃあもう、テーマはシ的でいいじゃん。と思ったのでこういうことにした。*3「シ」はあらゆる感じへの通韻を可能にする。「し」をそのような通韻として考えた本に原田宗典『し』があるけれど、そういう感じだ。だけれども、原田はひとつ知らなかった。
- そう、シ的なものはリキッドだったんだ。
- ということで、『S.E.VOL2』は「リキッドなものとしてのシ的世界」との出会いを奨励して演出する雑誌にきまった今決めた。-『S.E.VOL2』に掲載されるおのおののコンテンツは、それぞれ「リキッドなものとしてのシ的世界」の、どこかの側面を担っている。それらの表出の仕方が多少異なるが、しかしすべて「シ的」なものであるがゆえに、ハジメテデアウに値する。
- それらのをつなぐ「感じ」がリキッドという概念なのだと思う。たとえば水。気体になったり液体になったり、雫になったり露になったり川になったり海になったりする。呼び方も「ミズ」や「スイ」になり「スイ」なら「粋」「推」「酔」「膵」「衰」「垂」に通音する。変化の境目がないようで、しかし文節の仕方でいかようにも変わるような言語環境世界を「リキッド」のイメージとしたい。
- つまり「枠に縛られず」「いろんな形に姿を変えて」「飛び火のようにさまざまに形を変えながら、すべてに通じて合わさる柔軟さ」をもつ言葉づかいをもって、リキッド=シ的≒文学としてみた。ていうかした今決めた。このある種の「ダサさ」が、現代思想か実証主義かでゆれる文学の、本当に入り込みずらくなった側面にかっこわるく突き刺さればいいし、突き刺されなくても、自分たちがつむぎだす言葉の群れが、どこかで意味をもてばそれでいい。
もう一つ。言葉は言いなおせる。言いなおせるという回復の可能性において、ってもういいや*4。
コンテンツ。
- 上に書いたような理念というか目的の元に考えると、芥川さんの漫画を除いて(これはもう『漫』でしょう)ほかの紙面は「シ的」なものの一端を担っている。もちろんインタビューも。そして、座談会も。
- インタビューは外側から提供されるシ的なもの。
- 「オオガラス」メンバーを招いての座談会は?「内側(同人のコンテンツ)と、インタビューをつなぐもの」?「読者に向けて、また別の「シ的」なもの」を提案する場所と考えている。
- そしてエッセイ、戯曲への招待、へんてこな絵、なぞの文章、そのほかがそうしたしてきうちゅうの一部をそれぞれににないうるがゆえに、デザインという視覚的なイメージのなかで、それぞれの関係のない言語世界が別次元のレイヤーのなかで統一されてくるに違いない。
そんなのかんけいねえ!!
- えー、芥河圭一さんの漫画がまたしてもやらかしてくれたそうです。
- えー、表紙が今号もすごくなりそうです。わかりませんが。