S.E.VOL4 製作中
こんばんは。
左隣のラスプーチンの雑誌を定期的に勝ってくださる方、というのも嬉しいことにけっこういて、その方たちの期待に答えるためにもと思って、いまでも『S.E.』を始めとする雑誌を作り続けているわけです。
もちろん、今年も文学フリマにでます。
5月6日 東京流通センター
ウー01、ウー02
左隣のラスプーチン×カトリ企画×ユニプラ
ででます。新雑誌も作っています。その名も『S.E.VOL4』。まる一年ぶりになるナンバリングタイトルですね。
作っていますが、今回はデザイナーさんが外部にいたり、あのイラストレーターさんにイラストをお願いしていたり、いままでの人以外の人たちにもけっこう協力していただいていたりします。
それで、ワークフローや作業行程なんかが今までとかなり違っていたりして、ちょっとシクハックしていたり(シクハックさせていたり)します。
でも、初めてのことをやるときや、初めてのものを作る時には、どうしたってシクハックがあるんですよね。
それが、お互いの不満にならないように楽しくコントロールできればいいけれど、ちゃんとできてるのだろうか………。
とかね。
でも、そこも同人をやる喜びだなぁと思います。喜びは、「悲しいことや苦しいことがない」と云う状態を指し示すことばではありません。
「悲しくても苦しくても、それよりももっと大きななんかに出会えた興奮」なんでしょうね。
わかんないっすけど。
去年の半ば頃から、少し「人の生」ということを考えるようになりました。人生、とか、人らしさ、とかです。
そんなもの(。A。)⌒Y⌒ ヾ( ´_ゝ`) イラネ!
と一昨年ぐらいは思っていたのに、不思議なものです。小林秀雄は戦時中に古典を読んでいたのですが、まさしく古典は「戦時中」に読むものだったのでしょうね。人が人らしくあるには、人らしくない環境から離れなければならない。もちろん、何が人らしいのか、なんて簡単にはキメられないしキメてはいけない。かといって、ではどんな状態も何もかもが人らしいのだ、と、いってしまって、いいのか。
たぶんよくない。
文学は・・・・・とゆうよりも、文学を含む人文学はそうした問いかけと格闘してきたものだったのでしょう。有用性や公正さだけには縛られない不合理な想像力と夢と回想。そういうものについて書きたかったし、これからも書いて行きたいなぁって思いを込めて、いま必至に作ってます。
近況報告でした。近いうちにあれこれと告知もできると思います。