カウボーイ&エイリアン

カウボーイ&エイリアン
http://www.cowboy-alien.jp/

カウボーイ&エイリアンを見に行こうと思う人がいたら、その人はいくつかの意味でやや特殊な性癖の持ち主か、好きな俳優がでているかのどちらかだと思われる。どう見てもB級、どう考えてもB級、実際観てもポップコーンがまずくなる程度に様々な後悔を胸にかかえて、あぁ、あぁ、あとうわづりながらなぜそもそも、「カウボーイ&エイリアン」を見てしまったのか自問自答することになるでしょう。



 話をまとめてしまえば、「カウボーイがエイリアンと戦う話」以上。記憶をなくしたカウボーイが荒野で目覚めて云々、なぞの美女云々、元大佐のドラ息子や町の人々が突如飛来したUFOに云々……そんなこたぁどうでもいいんですよ。
 



 カウボーイ以外にもいろいろ出てきますが、ハリウッド映画のお約束らしく主人公以外は基本的に何をしているのか不明瞭。そもそもどうしてカウボーイとエイリアンを一緒に結びつけようと思ったのか、いろんな意味で理解に苦しみますが、そういう「ノリ」が好きな人はきっとある程度はいることでしょう。本作は「データベース」としてはほとんどある完成形を示してすらいます。



 でも、あと数年前だったら僕もこれをたのしくゆかいなネタ映画として美しく消費できていたかもしれません。だってカウボーイがエイリアンと戦うんですよ。ウケるでしょう。ウケないほうがどうかしている。意味不明もここに極まれり、ですよ。



 日本近代文学を考えるにあたってしばしば「ハイシリアネス」という言葉が使われます。糞真面目主義とも言われたりする、このマジメにたいする硬くなな態度はいつしか滅んでしまいました。実際にマジメであることは性質ではあるけれど、美徳ではありません。あるいは美徳ではあるけれど、長所ではないでしょう。そうしたシリアスさにたいして、映画はむしろ従順なメディアであり、また極端に反抗的なメディアでした。糞真面目な映画に対する様々なカウンターが試みられてきたときに「ゾンビ」や「地球滅亡」や「ビッチ」の、ほとんどお笑いな抵抗の数々は容易に想像もつくとゆうもです。



 もし、時代が時代ならば……あるいは、単純に時期がみたされていたら「カウボーイ&エイリアン」は、そのネタさ加減(おっさんばっかりな所とか、展開の意味不明さとか、戦闘機やエイリアンのダサさとか、いまいち死にパターンがわからないところとか)によって、歴史にのこる名ネタ映画になっていたかもしれません。けれども、そうはならないだろうと思います。何故ならば、今はその時期ではないから。



 この「時期」というのは何かを指し示す言葉ではないかもしれません。しかし、ある意味では究極的に急所を示す言葉でもあります。この映画が評価されない「時期」が今なのでしょう。カウボーイ、エイリアン、謎の機械、ガンズファン。CGも、ハデではないけど見れなくはない。ハリソン・フォードはかっこいい。それでもなお「ネタ」にすらなれない奇妙な寒さを感じてしまうのは、きっと時代のせいとしかいいようのないなにかではないか、。映画としての完成度は、データベースの満たされぐあいとは、もう関係ないのではないか。なんて。