ルデコで絶賛公演中。

 渋谷駅の新南口駅を降りて徒歩五分もかからない、大通りの正面に何気なく立つビルが、ギャラリー、ル・デコである。

 開催中の様々な写真展やアート展に混じって、今現在二つの劇団が公演を起こっているわけです。かたや早稲田大学演劇研究会から派生した「北京蝶々」と、推理劇を得意とする「DART'S」だ。

 この二劇団がル・デコで同時期に公演をするのは、ほんの巡りあわせに過ぎないでしょう。
 2日続けてこの2劇団を見た僕の行動もただの巡りあわせに過ぎない。
 同じような空間を使い、全く異なる二つの物語について独り言のように述べておくことも、僕の気まぐれにすぎないのだけれど、この二つの劇団を見ることができるのは今だけなのだから、その気まぐれに気を任せてふわふわと感想を綴っておくことにします。

北京蝶々『あなたの部品 リライト』


 義肢をモチーフにした、欠落と増加の物語。
 あるいは、身体とそれ以外の物語? 君の大切な車や、テニスのラケットでもいいし、携帯電話もそうかもしれない。身体みたいな身体や、身体ではない身体のおはなしを、大塩脚本はめまぐるしく現れる、欠落を抱えた人々の所作を通じて描き出そうとした。
 まるで〈自分の身体〉であるかのように扱えるいろいろなものを僕等は使って生きているけれど、それには〈自分の身体〉を自明の対象としてもっていないとならない。
 男が女ごころを理解しにくい(逆もまたしかり)ように、最初から存在しない器官の触覚を想像するのは難しい。 けれど、最初に存在していた身体の欠落はいったいどんな絶望の色がするのだろう。その欠落を修理したときに、どんな感情をもつだろう。
 欠落を、最強最強へと押し上げることができたら? 義肢に携わる人、障害をもつひと、障害に憑かれた人、でもそれらを健常者と障害者の二つで分けていいのかしら、ひとりずつのズレや違いを補ってしまう力や想像力についての丁寧な思索があふれていて、演劇を見てもよいけれど、台本を読んでもよい演劇なのだろう。この完成度に高めた脚本をまずは褒めたい。
 けれども、これがよい台本で終わらないその演劇的完成度を持っている。ひとえに、「時間堂」の黒澤世莉による演出によるだろう。自然でありながら場面ごと、そこに立つ俳優たちの内面を抉り出す。俳優の身体そのものまで舞台芸術にしてしまう。
 また、その作演の魅力を数倍させる俳優たちのキャスト、そしてアンサンブルの見事さをはいうまでもない。酒巻、田渕の二人義肢士の軽妙なやりとり、岡安の演じるしたたかさの中にナイーブさを内包させる女医。
 開演直後の若干のセリフ回しの奇妙さやテンション、あるいは後半の医院にくる人々の内面が次々に吐露される場面の、不合理さなどが気になるかもしれないけれど、一度みたら、ほっとするような、無性にかなしくなるようなお芝居でした。

DART'S『The lifemaker』


 前回の演劇もル・デコでやって、とある女優さんに誘われて観劇にいったのでした。これがもうでたらめに面白い。メタ・メタ推理劇なんだけど、これを演劇でやるって発想がなかったし、実際にやってみると「推理」と「演劇」の相性ばっちに感動せざるをえない。
 作劇、演出は基本的にリアリズムだけれども、その舞台設定や舞台の上で起こす出来事は〈出来事〉の階層をいくつも重ねた複合レイヤーを設定している。前作では人物の脳内と、「ゲーム」の内部。今作の『lifemaker』では、ある意味ではその仕組は後退させたものの、「ゲーム」と「リアル」というテーマをより一層深化させている印象は持ちました。
 メタ推理に利用した脚本と、推理劇としてほぼ完璧なトリックと笑いあり、涙ありの緩急のついたシナリオに、殺人劇の凄惨さを舞台上で表現する強い緊張感。エンターテイメントとしても最上の出来でしょう。
 そもそも舞台の上ではなく舞台の外側で「事件」を設定することが多い演劇においては、この階層化させた複合レイヤー*1が本当にすんなり入ってくる。小道具も見ごたえがばっちりで、事態の推移もわかりやすくて感情移入しやすいものでした。なによりも、犯人が分かる前の緊張感がたまらない。
 演劇の魅力は生の身体をもつ人の力強さにあるのだけれど、それだけではない。舞台の外側で起きる出来事への想像力や、そのフレームへの信頼、あるいは推理という型への演劇からの挑戦ということもあるのだろうな、なんてことを漠然と考えつつ、もうちょっとあとで書き足すかも。

両方共、まだまだ公演中。
 

*1:とかって書くと分かりにくいですが、お芝居をみたらその意味はすぐにわかると思います