フセイン・チャラヤン- ファッションにはじまり、そしてファッションへ戻る旅

作事つ、東京都現代美術館で行われている上記展覧会に行って参りました。

キプロスに生まれたアーティスト、フセイン・チャラヤンの個展です。もともとはロンドンのデザイン・ミュージアムの巡回展で、今回は東京都現代美術館に合わせてデザインしなおした「東京」バージョンだそうです。

 昨日は江東区芭蕉記念館の特別展を見、それからチャラヤンの展示をみてから、15mmも見たのでした。そんな一連の流れ、清澄白河の駅から池袋グリーンシアターまでの四十分ほどの時間を、このフセイン・チャラヤンについて考えて過ごしていました。

 この展示にいきあうまで、ぼくはこのアーティストのことを知りませんでした。何の予備知識もなく、何を期待することも信じるわけでもなく、と言い切れるかは微妙かもしれませんが、これに出会ったのでした。
 
 チャラヤンの展示は、その多くをファッション――衣服、身に纏うもの、まとわざるを得ないもの、否応無く纏う記号の存在――におっています。やや老いた女性のマネキンに着せられたオブジェのようなファッションと、一流のモデルたちが織りなす群像劇のような映像作品が彼の作品の主要なものを占めていました。LED、レーザー光線、スワロフスキークリスタルを大胆に使い、メカニカルな機動ガジェットなども使われているファッションショーの映像も流れています。これらの〈服〉がもつ今日的な批評性は、例えば僕がここで縷縷述べることではないでしょう。
 
 彼の映像作品に「麻酔」という奇妙な作品がありました。円形の台座を舞台に繰り広げられる、思考停止の諸容態。刺身、老婆の食事、少女の銃、無菌室的な白衣をベースとしたファションが痛みを忘れさせていくかのような、しかし核心もないような、十二の小さな物語たち。僕が結局最後まで見ることができた映像作品はこれだけでしたが、「麻酔」というものが否応なくもってしまう意味の重みと、それは必ずしも〈ことば〉で説明するべきものではなくてもいいのでしょう。そこに登場する年齢のマチマチな男女たちは、意図の取れない笑みを浮かべ

 チャラヤンの展示に「語りえぬことは沈黙するしか無い」という有名なテーゼ(?)に対する小さな答えがあります。それはたしかに奇妙な展示でした。そして確かに沈黙しきっていました。いや、あの会場の奇妙な騒々しさや騒々しさに意味付けをしてしまう視覚的な効果の洪水の中で、それは完全な〈沈黙〉ではなかったかもしれません。美術館の間にあるという、それだけでも。

 簡単に批評性や社会性に回収されてしまうことや、回収事態を拒むことで別の文脈に回収されてしまういろいろなことに、ことばでなんとかする、というのはきっとこうしてブログを書くたくさんの人達にとって普遍的な戦いなのでしょう。でも、必ずしもそうした文脈は文章だけじゃないものも持っている。
 それがずっと僕は声だと思っていました。

 でも、もしかしたらファッションもそんな力をもっているかもしれないんですね。
 人が何か目の前で変な動きをしていたり、人が何かをしているということは無条件に面白いってことがあると思う。

 でも、誰かが何かを着ていること、いやでも何かを着ているというその事態に、それが宿っているのかもしれない。みたいなことを考えていたのかもしれません。

 あ、今日の日記は失敗だ。とんかつ君たすけて(笑)



VOGUEにインタビューが掲載中
http://www.vogue.co.jp/fashion/news/2010-04/06/hussein

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