同人文化に定義はいるのか?

 
 mahakoyo氏のコメントへのリプライもかねて、この話題を継続してみたいと思います。
 さて、前回のエントリではあかみ氏のコメント、それに対する僕のリプライ、そしてmahakoyo氏によるコメントという流れで、「同人文化の定義」にまつわる幾つかの問題が表れました。
 僕は井手口論文を拝読していないので、その論文を軸足とした議論ができません*1。今回は、いままで出た議論と合わせて、同人文化の定義の必要性/可能性について考える必要性を感じています。

 感じて二週間ほど考え込んだのですが、まったく回答が思い浮かびませんでした。サーセン

 しかし、mahakoyo氏のコメントに二つ補足の必要を感じています。あかみ様への質問が主部をなしているため、それについて僕がコメントをするのは控えることにして、そちらから先に述べておきましょう。

そもそも、様々な人文社会系の学問領域において、扱う領域についての定義が(不変的、普遍的に)厳密に定められている、という事の方が珍しいのではないでしょうか。倫理とは、道徳とは何か。教育とは、文学とは、、、。これらの命題に対し、「不変かつ普遍の解」が用意された事などありません。音楽美学という学問は音楽とは何かという根本命題を常に問い続けるものであるからこそ、学として成り立っている分野であります。同人とは何か。この命題に永遠の問いかけをするに値するからこそ、同人という学たりえるのではないかと私自身は考えております(「同人」が他の学問と比べ、定義し難いものである、という点については、同意の上に)。

という部分には、僕は少しだけ違う認識を持っています。少し強引なサマリーになりますが、mahakoyo氏は定義について「不変かつ普遍的なもの」と「根本命題について問いかけ続けるもの」の二つを想定しています。そのなかで「根本命題について問い続けるものであるからこそ、学としてなりたつ」学問領域があるという認識にたち、同人(音楽)研究もその認識の中で考えるべきではないか、と考えているように読めます。(あるいは、根本命題について考え抜くことができるだけの強度があるものを学として認めるべきだ、なのかもしれません。)
 この「根本命題について問い続ける」ことが学問に値することだ、という点には、一部留保つきで同意します。それだけの強度がない「学問」はどのみち長く持ちません。

ほかの役割

 でも一方、僕が同人文化や新しい世代の学問領域にはもう少し別の、現実的な問題に対応するための機能も求められているのではないか、と思うのです。たとえば、差別とか偏見、とかですよね。その意味で、同人文化の定義が必要かもしれない、と僕がいったことには、同人文化はどのように自己表象を行うべきか、その見取り図を社会に示すことがあるならば、それは「学」がやるべきことではないか、と思ったということです(これもそうなのかどうか、自信をもって言い切れません)
 
 もう一つは、僕自身が「学問における定義」についてmahakoyo氏と異なる考えを持っているらしいということです。文学研究の世界では、T・イーグルトン『文学とは何か』という有名な本があります。先行する「文学」の概念を分析し、それらを全て、自分たちに都合のよいものを文学と名づけているに過ぎない、と要約します。定義問題の多くがそうであるように、僕たちにとって都合のよい「定義」を採用しただけのことを、さもその領域の意義を決定づける「定義」として流布させてしまうことはありうるのでしょう。

 でも、僕は「定義をする」研究が必要だと思うのは、「定義」が普遍的かつ不変の真理として一つ提示されることによって定義が確定するが故にではなく、多様な「定義」が林立することで、定義を試みようとする領域の豊穣さが明らかになることを期待して、ということなのかもしれません。その意味でも、最初から「定義は無理」と投げるよりも、少ししんどいけど頭使って考えてみたら、もっといろいろ面白くなるかもよ。という提言なのでした。

ヘゲモニーに回収されないように

 しかし、むしろ僕が前回のエントリで強調したかったことは――一一部mahakoyo氏の言葉で言い換えると、「定義」を「根本命題」として宙吊りにしてしまうことで、「同人」の認識がある種のヘゲモニーを中心とした概念の中で流通してしまうのではないか、という危惧だったわけです。抽象的な言葉遣いになってしまったので、次の、僕のエントリの要約と関連させてもう少し考えてみたいと思います。

上の安倉義氏のエントリは、「同人」の(不変的、かつ普遍的に厳密な)定義を行うものではなく、あくまで、研究や批評の枠組みを作る事について述べられたものであるように思います。その入り口として、「同人文化は定義できるか」と、問いかけている。

この要約は、前半部分は適切なのですが、後半部分が抜け落ちています。

前回のエントリで僕はこう述べました。

そこらへん(同人文化の定義)を考えなければ、いつか同人文化が「歴史化」されたとき、多くの零細サークルが存在すらしていなかったことにならないか。あるいは、大手サークルの栄光のために、中小弱小のサークルが無視されるような歴史観がまかりとおってはしまわないか。

この、前回の僕のエントリが「大手サークル中心主義」あるいは、「大手イベント中心主義」的な歴史観を批判する側面がある*2、ということを、このエントリでもいま一度強調しておきたいと思います。(なお僕はそうした歴史観を想定しているだけで、これが現在まかり通っているかの実証研究をすっ飛ばしています。なので、これはただの「意見表明」として考えていただきたいのです。)

結局わからんかった。

 そうした中で、学問は「常識的に考えられている」ことに対して「そうじゃないかもしれないよ」と常識崩しの意見表明ができる希少な領域だと思うのです。なので、批評や研究が盛んになるべきだと思う一方、それがどのような進展を迎える「べき」なのか、あるいは研究や批評を読んでくれる人たちをどうやって増やしたらいいのか、それがよくわからないのです。
 
 そして、僕は、そうした前提に立ったとしてどういうフレームを用意したらいいのか、というのをこの一週間ほど考えてみましたが、よくわかりませんでした。ええ、結論から言えば、よくわからなかったのです。ですから、この問題についてはもう少しまとまったデーターや意見を集積したのち、考えてみたいと思います。

しどろもどろの応答になってしまってすみません。しかし、正直僕には今現在これ以上のことを書くことはできそうにありません。

 それにしてもたぶん、来週には『Web S.E.』の第三弾、鈴木未知可さんによる『百舌谷さん逆上す』についての評論が載るんですよ!
(文責 安倉義たたた)

*1:今度、読んできます。すみません。つかなんてタイトルの論文ですか?

*2:まさか勘違いをする人はいないと思いますが「大手サークル」を否定しているのではないですよ。