同人文化、とは何ぞや?

同人文芸やってます!

と元気に宣言したところ、ものすごい汚い物をみるような目で「へぇ」と言われてへこんでいます、「左隣のラスプーチン」主幹、安倉義たたたですみんな元気?


近日、名古屋にて「同人音楽研究会」なる学会が開催されたと聞きました。

その絡みでなんですが、最近、DiGRAやIDGAjapanをはじめ、「同人文化」に対する研究が盛んになりつつある印象があります。リードするのは「ひぐらしの鳴く頃に」や「東方シリーズ」といったメガヒットの同人ゲームの存在でしょうか。とくに同人ゲームは、DiGRAにおいてシンポジウムが開かれたほどで、ニコニコ動画や同人ショップのような消費の現場にとどまらず、アカデミックな領域にも強い存在感をかもしだしはじめたように思われます。従来より、同人ゲームはいくつかのサイトなどですでに在野を中心に研究が進められ、ルドロジーの紹介や『智場』108号でもゲーム・デヴォリューションとして特集を組まれており、ある意味では当然のながれとしても考えられることではあります。

でも、僕がうすぼんやり考えるのはゲームだけじゃなくて、「同人文化って定義できるのか?」という話です。

定義はなぜ必要なのでしょうか。僕たちひだらすの「同人活動」において、僕は同人の定義を必要としていません。
同人活動を行うに当たっては、結局は何かの「同人活動」をしていればよいのですし、そこに自分たちを内省するメタな視点を必要としてはいないのです*1

たとえば「同人サークル」の定義についてはUPFGさんの「TOKYO Complex」のブログに大きく紹介が掲載されています*2。この定義はある種とても分かりやすい構造になっており、「同人活動」を行っているところを「同人サークル」とみなしているようです。

 同人文化についてずいぶん前のエントリで少し「kugyoへのリプライ」として論じた(というかやり逃げした)ものがあるのですが、そこをみたある人から「同人文化は定義できないよ」というコメントをいただきました。同人文化を論じるさいには、ほとんど断り書きのように「同人文化は定義できないんだけど」という前置きがあって、そこから論を始めるケースが非常に多い印象を持っています*3
 
 この「定義できない」にはおそらく二つの意味があるのでしょう。

 一つは「定義」をするための方法論がいまだに十分論及されていない。
 もう一つには「定義」をするための資料が確定的に収集/整理/紹介されていない。
 
 とりわけ後者の問題は深刻かつ非常にやっかいです。UPFGの同人活動の定義には以下のようにあります。

同人活動
年間発行部数が1部以上または同人制作物頒布が過去1回以上あるサークル

※ 年間発行部数は製本部数であり、頒布部数ではない。年間を通じて発行した全ての同人誌の総数を指す。
※ 年間発行部数は、同人制作物として頒布可能な状態に置かれた総数を指す。以下の例示を参考とすること。
イ.同人イベント、同人誌取扱店への委託(ダウンロード販売、通信販売を含む)、個人通販として売り切れるまで販売することの出来る総数は年間発行部数に計上される。
ロ.製本された部数のうち、販売・頒布を目的としないもの(記念本として、サークル構成員のみに限定して配布されたもの等)は、年間発行部数から差し引く。
※ 同人制作物頒布は、同人イベントへのサークル参加を指す。
※ 同人制作物頒布には、同人誌取扱店への委託のみも含む。
(同人誌取扱店への委託は、1種類の同人制作物についての委託の契約の成立を以て1回と計上する。)
(1種類の同人制作物について、複数の頒布方法をまとめて1回の参加と計上する)
※ サークルは個人サークルを含む。

 ISBNのような「ID」をもたない同人頒布物においては、この定義の中にある「過去一回以上ある」ということの事実性をめぐる問題が発生してきます。つまり、一度も本を作ったことの無いサークルは同人とみなせるかどうか、という問題です。ある種の思考実験以上のものではありませんが、「同人活動をしていないサークル」が「同人活動をした」と申告した場合、それらを遡及的に発見することが非常に困難だ、ということです。そういうサークルは「同人文化」の中でどういう風に位置づけられるのか。
 
 もうちょっと具体的には「同人サークル」を名乗りイベントに出展しても「予告看板」だけをつくってなくなってしまうという事態も想定できます。それは同人サークルなのかどうか。

 そして、それらを同人活動とみなすなら「それをどうやって資料として収集するのか」。文学フリマには「三島由紀夫のコスプレをして騒ぐ人」が現れます*4。彼の行動は、同人活動でしょうか、そうではないのでしょうか。

 しかし、彼らはイベントの中にきちんとしたニッチを占め、それが場の空気を盛り上げていることはたしかです。

 僕が危惧する事態として、商品=頒布物にならない行動をする「賑やかし」が「同人場(イベントなど)」の中ではある種の要請を受けて存在感を作るのにたいし、文献やデーターから話をはじめなければならない同人論は(過去の出来事は、ある段階を過ぎたら全てデーターで話をしていかなくてはならないわけで。)、そうした同人場との距離をどうしても開かせてしまうのではないでしょうか。論として成立させるためにはどうしても論の素材となる対象を手に入れる必要があります。その意味で、すべての対象を手に入れることが難しい同人頒布物は、どうしても大手の大量に印刷されたものを中心とした歴史観に偏りがちになってしまう。

 同人のもので、容易に収集し整理できる「超大手サークルあるいは、超大手イベント」ばかりのものが論じられる傾向に流れていくとすれば、それは果たして、同人文化にとって幸せなことなのかどうなのか。もっと言えば、論及数や頒布物の入手可能性によって同人文化が論じられてしまわれやすいのならば、「同人文化は定義できないよ」の語りが、「同人文化は入手可能性の高い、ショップ委託や商業メディアへのバイアウト(買収)をされたものによって論じていくものだよ」という論理に摩り替わってしまう可能性があるのではないでしょうか。

 同人を頒布物=消費量から考える方法論では「同人文化」が定義できないことは、同人イベントの参入障壁の低さから明らかです。新人賞をとらなきゃいけないわけでもないし、枚数規定や形式に規制はない*5。そういうものを同人文化として、参入障壁の低さというものを上げたいのですが、研究対象として同人文化を見た場合に、それをどうやって確定していけばいいのか、今ひとつまだ自分でもわかりません。
 
 同人、といってすぐに思い浮かぶのが「漫画」である現状についてはさておき、同人文化、といった場合の「文化」はどこにかかるのか、あるいは、研究・批評という立場からどう「かけるのか」。そこらへんを考えなければ、いつか同人文化が「歴史化」されたとき、多くの零細サークルが存在すらしていなかったことにならないか。あるいは、大手サークルの栄光のために、中小弱小のサークルが無視されるような歴史観がまかりとおってはしまわないか。僕は現在同人批評やレビューに携わる人たちの智識や良識を信じていますし、その技量も十二分なものがあると思うのですが、もうそろそろ、少しまとまって考えたり、集めたりする時期にきてるんじゃないかな。という風にも思うわけです。

 ていうようなことを考えていますよというだけの話でした。もしもうちょっと時間があったら、文献を読んだりイベントレポートをみながら「同人文化」なるものはどういう条件によって支えられ、どういう条件を満たしたときに定義できるのか、について考えてみたいと思ってます。

 あと、やはり作り手の人たちの「気持ち」をなんとか受け止められるような批評的名文章を書きたいなあぁと思ってるのですが今はまだ力不足で無理そうです。

 ではでは。 
 

*1:もちろん、内容面においてはいくらでも検討を行いますし、自分たちの「目標」もみ失ってはいません。メタに考えていても、結局、行動としてはベタなものになってしまうということです。

*2:一次資料として扱っていいのかどうかよくわからないのですが、一応ここで掲載。

*3:僕は、ということで、実証的にはまたいつか別稿で書きたいと思うのですが

*4:其の方もブログをやっているのですが。

*5:まったくないわけではもちろんありませんが