kugyoへの返信第ニ回

四つのイベントから見る受け手の慣習。

 さて、ここでざっくり4つの同人イベントを紹介しておこうと思います。
 「コミティア」「文学フリマ」「コミックマーケット」「M3」です。
 印刷所などのHPを見てもらえると、同人イベントと名のつくものがどれほど多数存在するか分かると思いますが、あえてこの四つにしぼって考えてみたいと思うのです。
 

コミティア

まず、「コミティア」、オリジナル・オンリーと呼ばれるイベントで、ほぼ年4開催。漫画を中心に、音楽、創作文芸なども出展するオリジナルオンリー最大の同人イベントです。参加サークルは2000強。企業からの出展もあり、スカウトもいます。幕張の東京ビッグサイトで開催されて朝一番は壁サークルめがけて走る来場者たち、昼以降はまったりと過ごすたくさんの来場者たちでにぎわいます。

文学フリマ

 つぎに「文学フリマ」僕たちのサークルが主な活動場所にしている、文芸創作オンリーのイベントです。秋葉原市庁舎で行われ、来場者数は800〜2000(今年はゼロアカ効果もありましたね)です。参加サークルは150前後。来年度から300サークル以上参加可能な蒲田pioに移動します。活字オンリーが売れるイベントということで、非常に注目度が高いイベントですが、同人イベントとしてはそこまで大きいものではありません。

コミックマーケット

 「コミックマーケット」 夏と冬、年2開催の日本最大の同人イベントです。2次創作中心ながら、企業ブースも巨大、音楽や活字イベントなども華やかに行われます。参加サークル数は3日間で3万を超えます。来場者数はもういうまでもないでしょう。

M3

 「M3」同人音楽専門のイベントです。年2回開催ですが、「M3フェスタ」というライブパフォーマンスや試聴中心のイベントもあり、事実上年3回あります。
 最近ではニコニコ動画の「歌ってみた」の歌手や「演奏してみた」の人たちも参加して大きなイベントに成長しつつあります。参加サークルは400前後。

さて、kugyoはなんこいったかな?

 ここであげた同人イベントは、「プレス物」のイベントとしては主要な位置を占めます*1で、問題なのは、これらにすべて行く人は一体どれぐらいいるのだろうか。という話です。
 M3は音楽なので同人イベントで「本」を出しているサークルには出展する契機がありません。逆に文学フリマでは「CDの出展は認められている」にしてもM3でぶいぶい言わせるようなサークルは出展していません。
 また、出展者たちですらそうなのですが、観客においては一体これらのイベントに遊びにいっている人たちがいるのでしょうか。
 これは想像ですが、ほとんどいないんじゃないでしょうか。この四つのイベントの存在を全部知っている、という人すら、同人業界(?)にとっては「コアユーザー」に入るかもしれません。この四つなら全てしっている、という人がいたとしても、日本全国毎週開かれる無数の同人イベントをすべて知っている人はほとんどいないように思われます。
 それでも、同人イベントが無数に行われうるのは、自分にとって必要なイベントが行われるからでしょう。現状、ほとんどの人にとっては、全ての同人イベント、という概念がそもそも不在であっても、かまわないのです。

同人の全体が問題なのか。

 kugyoの問題提起は、先に「同人の全体」がある。と想定したところから始まります。これが誤った想定である、とは思いませんが、楽観的な想定ではあるかもしれません*2。同人イベント全てを網羅するニュースサイトの不在、同人活動そのものの境界の曖昧さなどもまず環境的な要因としてあげておく必要がありますけれど、ほとんどの受け手にとっては、「同人の全体」なんてなくても、自分たちの行きたいイベントだけでまかなえてしまうわけです*3。そこには落選者たちへの配慮のようなものも、もちろん必要ありません。逆に、落選した人も「次」があると考えればそれでいい。
 お目当てのイベントだけで済むような行動慣習の前には「カウント」という方法が同人イベントの受け手にとってそれほどありがたい全体性の把握の方法ではない、と考えてもよいでしょう。こうした状況が「いいか悪いか」はさておくとしても、現実的に「同人の全体」が誰かの意識に上りうるとするなら、ある読者や受け手の「想像しうる同人活動の境界」なのではないか、と思うわけです。
 つまり、同人活動は数限りなく行われているのですが、ある観客にとっての同人活動とは、非常に限定的な「私にとって興味あるイベント/サークル」を指すのだという理解です。文学フリマに対する僕のささやかな意見もそこにあって、文学フリマはもっと他のイベントとLINKするべきだと思うのです。運営や人員にコストやリスクを考えると現実的ではないでしょうし、もちろん僕がそれをやれるわけもないからこれは想像的なものに過ぎないのだけれど、せっかく蒲田に移るならば小さいM3フェスタみたくライブをやってもいい。
 あるいは、文フリのサークルが詩を書いて、M3を主体にしているバンドが演奏をする(実際にこういうことはあるかもしれませんが)ということがあってもいい。そういうチャンネルが今の同人業界……だけじゃないにせよ、あまりにも不在すぎるのではないかと思うのですね。それは客層や選好の問題もあるので簡単にいえないんだけれど、本論と関係ないので割愛。


 そして、下手をすると作り手にとってもこれは同じように機能するかもしれません。自分が「出たい」と思うイベントだけが、作り手にとっての同人イベントなのだと*4
 こうした理解が、読者(というか同人文化の受け手と作り手)たちを極めてプレイヤー的に捉えているという批判はありうるでしょう。また同人文化の見方が島宇宙*5だという批判も観点によってはありうるかもしれません。こうした島宇宙を包括しているのは、今考えてみると「コミケ」という巨大な、あまりにも巨大すぎるイベント=お祭りのの存在かもしれません。コミケには無数のサークルが参加し、それはほとんどの人にとっては、ほとんど意味のないサークルで構成される膨大な市場です。しかし、一人の受け手にとっては意味がないかもしれない無数のサークルがコミケという場所の空気を作り出していることは間違いないのです。この「空気」が実態的に意味があるか無いかは別として。

漏れてしまうのか? それとも?

 ここまで読めば、なんとなく僕が考えていることもわかるかもしれませんが、僕はもう同人の全体性、という概念自体がほとんど無効ではないかと思います。送り手にとっても受けてにとっても、あってもいいけど、なくてもいいような考え方なのではないか。kugyoが提起した問題は、そこから「漏れてしまう」人たちをどう捕らえるかだったかと思いますが、これはならば、いったい何から漏れているというのでしょうか。それは、「受けての意識」と「場の空気」ではないかと思うわけです。
 場の空気。具体的に言えば、「ヲタ絵しか売れない」とか「コミティアに文芸創作でだしてもプギャー」*6
 これはコトバラでにへいさん*7が言っていたことですが、コミケの「ついで」感とか、そういうものと、そうした空気と遠くで地続きになっている「文芸書が売れない」とか「文学研究の本が売れない」とか「書店に人がこない」とかそういう出来事を作り出す空気です。それをどうしたら改善できるのでしょうか。どうしたら変更できるのか、受け手の、読み手の、作り手の、すでに確立された行動慣習を何が変えるというのでしょうか。もし、kugyoの提起した問題の最終的な落ち着き先が「零れ落ちるものへの視座」であるならば、それに対する回答は明確です。
 多数のサークルが参加するような、それが受けいられるような場所に「コミティア」や「コミケ」や書店がなっていくということと、それらのサークルが――コミケコミティアのような場所に普段来ないようなアーティストが――「表現の機会」として同人イベントや同人カルチャーを利用することです。そして、受け手がそれを面白がり、同時にいままでのサークルたちにも多数の表象機会がありうるよう、規模の大規模化と、裾野としてのイベントを多数作り出していく、ことだと思われます。

 つまり、イベントをマス化しろっつうわけです。
 
 が、これはとても難しい。いうまでもなく、コミケ=ヲタ=キモいの図式はいまだに健全ですし、受け手たちもそれを内面化している節はある。M3フェスタにも行きましたが、30代ぐらいの人たちがかなりいて、やはりそうしたカルチャーに親近感がある人たちが多かったのも事実で、同人イベントがだいたいそうであるように、初めての人にはかなり入りにくい場所であることも間違いないでしょう。
 でも状況は動いてはいると思います。PLANETの商業的成功もそうなら、たとえばMURDER CHANNELがコミケに出てたりするわけのわからなさとかそういうの。
 もうなんか書いててよくわからなくなってきたのでこの辺で終わりますが、僕が僕たちが同人サークルとしてやれることはとても少ないけれどゼロではないと思います。左隣のラスプーチンは明らかに「終わった文学に対するメセナ活動」としてやってきました。「メセナ」のあたりに入る志は、ずばり「値段」ですが「文学」に対する配慮は中身にしかありません。でも、表紙にだまされて中身を読んでくれたら、それこそ表紙=の裏切=誤配なわけです。意味も無く=とか使ってみてサイエンスウォーズとかやりかけてみましたが、そういう遊びができる場所として同人って面白いのですよ。

 なのでまぁ、こういうこともあるので、みんなコミティアに遊びにいったりしてみてね。というお話でした。

*1:つまり、別の見方をすれば「フィギュア」「映像」などのジャンルは漏れているわけです。

*2:コメントの応答で多少軌道を修正していますが。

*3:もちろんここでは東浩紀の「データーベース消費」を想定している、のかもしれません。こうした慣習を持つ人たちは、多かれ少なかれ「乖離的人間」なのかもしれませんが、ともあれここでその議論はしません。

*4:もちろん、「同人」という枠組みによるゆるやかな連帯意識はあるかもしれませんが、それはあくまでも僕たちの想定的なものでしかありません。また、「同人による連帯」、つまり「俺たちって同人だよね感」はあくまでも想像的なものに終わるでしょう

*5:限定的、ぐらいの意味で理解してもらえればかまいません。

*6:これはちょっと言いすぎ。コミティアで文芸創作出している人たちは普通に尊敬するしえらいと思っていますし、「プギャー」に揶揄的な意図がこめられていることで悲しい思いをする人たちがいるというところまで頭が及んでいなかった暴言したごめん。とはいえ、プギャーのあたりで思うのはやはりもうちょっと文芸創作とかグッズとか、あるいはCDとか音楽とかの人たちも楽しめるような空気にならないかなーっということだったりはするわけです。それはいろいろ難しい問題もあって、男性が「オヤジ抱き枕」があるところに行くのはなんか心理的に憚りがある、とか、あるいは親父抱き枕出してるところも、おっさんに来てほしいとは思わないよさすがに、というのとかがあるのもね、わかるんですよ。でもゼロアカ道場破りの『新文学』が残部売り切ったとかそういうところに希望を僕は見出しますよ。むしろ。

*7:友達と駄作、の人