難解になってしまったS.E.VOL2のための注解1

その日、僕は一人優雅な午後を過ごしていた。土地価格の高騰で一万ドルになった牧場を眺め、ウエストウッドの茶器から立ちのぼる湯気の馨をたしなみつつ、マドレーヌを片手に紅白の牛にまたがる騎兵たちにつぶやく「やってるな」と。そんな時間に僕は殴られました。

安「おいィ!」
梅「ひでぶっ!」
安「俺のストレスがマッハなんだがおまえのほねのずいからこしょうにしてやる陰陽ダんをくらえ!」
梅「ブ、ブロントさん…!? あんたなんでここに!」
安「『俺、参上!』のもとねたがとうほういんらんむだとおもっていたおまえのようなぬるはちをめっするためにじごくのそこからやってきたけんきょなないとだもういいからぬげよついでにそばになれ」
梅「何を言っているか……さっぱりわからない! 自分で書いてることなのに」
安「つまりですね。俺がいいたいのはこういうことです『おいィ!? S.E.はもともと初学者向け文芸雑誌だったんじゃないのかよ。それがなにゆえ、「リズール/レクトゥール」だの宇野だの柄谷だの蓮實だの東だのああだこおだと、すっかりお手製文芸誌っぽい感じにしやがって80年代の批評空間を知ってるやつらのための同人誌みたいにしたおまえの罪を思い知れガイガー』」
梅「もう一回言ってくれ」
安「つまりですね。俺がいいたいのはこういうことです『おいィ!? S.E.はもともと初学者向け文芸雑誌だったんじゃないのかよ。それがなにゆえ、「リズール/レクトゥール」だの宇野だの柄谷だの蓮實だの東だのああだこおだと、すっかりお手製文芸誌っぽい感じにしやがって80年代の批評空間を知ってるやつらのための同人誌みたいにしたおまえの罪を思い知れガイガー』」
梅「もう一回」
安「つまりですね。俺がいいたいのはこういうことです『おいィ!? S.E.はもともと初学者向け文芸雑誌だったんじゃないのかよ。それがなにゆえ、「リズール/レクトゥール」だの宇野だの柄谷だの蓮實だの東だのああだこおだと、すっかりお手製文芸誌っぽい感じにしやがって80年代の批評空間を知ってるやつらのための同人誌みたいにしたおまえの罪を思い知れガイガー』」
梅「つまりこうか。『ねえ。この雑誌、内輪ネタが多すぎない?』と』
安「ああそうさ。それではまるで、インタビューとサブカル評論でわっしょい、○○○○○○○○○と同じじゃないか。と。元々は、日々内輪ネタ化し、全ての領域から見放されそうになっている文学をなんとか再建しよう。文学の有用性をしめそう、というのがこの雑誌の創刊意図ではなかったかね」
梅「そうだったっけ?」
安「しっかりしてくれよ経済人格。俺がいいたいのは、『S.E』がちょっとあちこちに取り上げられたりしてうれしくなってんじゃないの? ボリュームと内容をレベルアップさせようと思って、当初の創刊意図から逸脱、失敗してんじゃないの? ってことだ」
梅「まー、そうだよね。VOL1の意識としては『文学』を未知のものだと仮定して、そこへの『出会い』をどうやって演出するか、っていうことに意識が濯がれていたわけだ。だから、実作者の宮沢章夫先生と、作者本介の対談風インタビューっていうのをやったし、エッセイ、小説、マンガ、戯曲、短歌、批評研究、そういったものをバランスよく配置して、とりあえず『こんなんありまっせ』という雰囲気を作る。値段も安くして、紙も漫画用のものを使って手触りを。表紙もイラスト風、だけど人物を出さないで『文学/文芸という未知の場所』を演出する」
安「けど、一方でこういう気持ちもあったことは認めよう。『三本さんと、作者さんの作品が読みてー』」
梅「それにやるやる、っていったらみんな手をあげたっていうのもあるしね。今回は主幹人格のきみが、積極的にオファーを出す形で作っていく、という意味で製作スタンスはかなり主幹よりに変わったわけだけれども」
安「ということだね。今回はかつくん、小峰くん、まーさんと新戦力として前回別の同人誌の企画に呼んでくれた人たちを誘ったし、それから、九段さんというわざわざこっちに連絡を付けてくれた人も載せることにした。それからグラミネ文学賞組では鈴木さんを導入したし」
梅「一方でまぁ、前号から脱落してしまった子、あるいは前号の頃から連絡を取ってくれていたのに、掲載できない人もでてきてしまったけどね」
安「紙媒体ベースでやっている以上限界がでるのはしょうがない。文字数ぎゅうぎゅうに入れます。情報量限界まで増やします。そういうコンセプトだけど、80~100pの縛りでやるならこれはどうしようもない。ウェブもやろうという話はずっとでているけれど、全部のリソースをそこにつぎ込む訳にも行かないし、固定ユーザーができるぐらいに何か考えないとまずい。『破滅派』さんところみたいにウェブ構築やデザイナーも含めて、強力な布陣や人員がいるわけじゃないしね」
梅「悪い意味でいえば、身の程は知ってるってことさ。まぁ、こちらもあれこれと工事はしていくんだけど。」

[S.E.VOL2]インタビューについて。

安「話を戻すぜ。今回は早稲田文学の編集人/ばくち打ち/インタビュアーとして活躍している市川真人さんにインタビューをとったな」
梅「主幹の君がやると問題があるから、僕がやったんだよ」
安「インタビュアーが、ぐだぐだなインタビューだけどな」
梅「言わないで、それは。けっこうへこんでるんだからー(笑)」
安「しかし、あの加筆修正は激しいだろう。思わず吹いたぞ」
梅「僕の追加も多かったし、修正も多かったし、市川さんもそれに答えるかたちでかなり加筆修正を加えてくれました。インタビューとしてはあれだね。ギャンブルの話、パチンコの話をもっとすればよかった。○の慶次とかやってみたんだけど」
安「ただしゲーセンで」
梅「ギャンブルの話をするには僕は力不足だったね。インタビューで当人もちょっと言ってるけど、パチンコ雑誌的な話も面白いと思う。双葉社白夜書房の人は絶対市川真人をつかうべき(笑)」
安「まーね。それから早稲田文学の話、文学とは何か、とか同人文化についてーとか取り留めなく話しているけれど、インタビュアーがかなり混乱した質問を……」
梅「へこむから(笑) でも混乱したものっていうのは、逆に修正してもよかったんだよ。インタビューって構成上、インタビューをした相手を立てるやりかたでインタビュアーが裏にもぐるようなやつと、ほとんど対談みたいなのとあるでしょう。僕は後者でやりたかったし、それは主幹人格の君のほうがわかってると思うけれど」
安「そうだね。文学に出会わせることが目的、とかっていうんなら、すでに本とか活動実績とかがあって、すぐにアクセスできる人のことを紹介したほうが、自分たちでコンテンツをゼロから作るよりずっと手っ取りばやい。市川さんの場合は『早稲田文学』という強力な媒体があって、しかもこれ、ウェブで見られるから。そこらへんも考慮しての市川インタビューなんだよね。その話もしてもらってるし。」
梅「インタビューっていうのは、逆に音声と映像で再生できるものではいけないんだよ。その当人のライブ感とか生身の身体にありがたみを感じるんなら、映像を垂れ流せばいいんだし。ウェブとかでね。そうしないで、あえて言語、しかも書記の言葉で『言った言葉を書きなおす』っていうのが入ることこそがむしろ重要だろうと。インタビュー当日のライブなおしゃべりとテープおこしの時間とか、加筆修正のタイミングとか、インタビューの日と書きなおしてる時の気分のズレとか。そういう非ライブな性質のインタビューって思考にとってはクッション/トランポリンなんだよ。ノイズを除去したり、あるいはノイズを加筆したりね」
安「ノイズをそのまま残してもよかったし残さなくてもよかった。でもそこにはエディションという作業が入り込む以上、やっぱり『言ってほしいこと』とか『聞きたいこと』とかに収斂されるようなものがほしいってことなのかな。文学との出会い、というのが主軸にあるならば、やっぱりそこはインタビューをライブなものとして無批判に捉えるんじゃなくて、非ライブなものとしてそのメタレベルの語りや言質なんかも含めて楽しんでほしいってことだね」
梅「ま、市川さんにインタビューとった以上『S.E.』と一緒に早稲田文学を手にとってほしいな。と。むこうは無料なんだし、ある種の偏りがあるとはいえ実地に『文学』やってるわけだよね。ただ、早稲田文学は、無料とはいえかなり難しい。いわゆるウェルメイドで分かりやすいものじゃないし、分かりやすくないところを『テクストの愉楽』として読んでいくためには、準備運動的でもいいから訓練が必要だろうと。早稲田文学って、手にとっても読まない人とか、逆に一号はとるけど二号はとらない人も多いんだよね。わけのわからないところ、面白がって読む人もたくさんいるんだけど」
安「その意味での石原インタビューとの併記、つまり教育っていう問題との絡みが生きてくるとうれしいんだけど。『S.E.』は前衛的文学と学校教科書的国語と、ウェルメイド小説群との中間を意図的に狙っているわけだよね。そこらへんの段階的なものっていうのを可視化したいという気持ちはあるんだけど、逆にそれをまるで階段のように提示してしまうと、一段目で躓いた人はもうだめだってなってしまう。一段目でこけても最後の段を軽く飛んでいける人もいるところがこの業界の面白さだと思うんだけどね。話がずれてしまったので戻すけれど、今回のインタビューはかなり隠語が多いのでは、という気持ちはあるね」
梅「まあね。まず、前提条件として

  • 市川真人は、早稲田文学という雑誌のチーフディレクターである。
  • 早稲田文学は、文芸雑誌で、しかも無料で、文学やっていて、ウェブでも見られる。
  • 市川真人は、80年代、90年代を席巻した『批評空間』の系譜に連なる批評家でもあり、柄谷行人とは弟子の筋にあたる。直系の先生にあたる人は、たぶん渡辺直己だとしても。
  • 柄谷行人はタイガースファンでもあり、『日本近代文学の起源』『探究(穵・穸)』などでも有名な批評家である。
  • 文学的な文芸誌はいま非常に経営が苦しい。みんな読まないから。
  • 80年代以降、文芸批評はさまざまな理論を吸収し、理論武装を固めて複雑化、高度化をすすめていった。

 とか、この前提は無数に増えていくんだけど、そういうのがわからないと難しいかもしれない。わからないなりに面白いっていうのは、もちろんあるんだけどね。」
安「ともすれば、こういう薀蓄をたくさん蓄えていくことが文学なのかーと思われないか不安ではあるわけだ。」
梅「一方で、『僕の心に響いて人生に交渉するもの』が文学だとかいう不幸な誤解も恐ろしい。その意味で「文学ってなーに」という定義を暫定的であれもっていたいんだけれども、まだそのステージじゃない、というか、ここでそういう定義を急ぐのはよろしくないかなと」
安「そのプロジェクトはそのうちにやらないとね。しかし一方で、いま・ここの文学がこういう80年代的な言葉遣い、というか一般的な日常言語だけでは説明しきれないような『理論武装』をせざるを得ないのはしょうがないとして、それをどう説明したものかな。正直いって頭がいたい。」
梅「ねー。いい、悪いの価値判断はさておくとしても、いくつかは用語的に『これは当然わかってるだろ』と思っていても相手がそれを常にわかっているとは限らないという。レイヤーって言葉さえ、あるいは『レイヤーを統合』って言葉もフォトショップを使ったことがない人に届くかな、っていう不安がある。」
安「ググれカス。といえばいいのかな? しかしこれ、ググる手続きなしだときついし、『ググる』手続きには相当の関心やその暇を惜しまない覚悟が必要というか……。それを最初このブログで『用語集』を作って対応しようかとも思ったんだけど、それもね」
梅「根本的な解決になってないという……。それを補うのが大学における文学教育、という側面を強調してもいいんだけど、まぁでも、いっか」
安「読むのはきっと、文フリなぞというコアなイベントに来ているお方たちだもんな。まぁ、ここら辺のこともそのうち考えておこうか。はっきり言ってしまえば、じゃあ分かりやすく『理論武装』をプレーンで日常的な言語で再現できるかって、俺には自信がないわけですよ」
梅「用語が多いから読まれない、ってこともないだろうしね。中身はすごく面白いんだから。と、これは広告。」

[S.E.VOL2]石原インタビュー

梅「こっちは小峰くんが担当だね。」
安「あと、両方のインタビューを踏まえて、鼎談をした。そのときにいろいろと面倒をみてくれたのがかつとんたろう君、というわけです」
梅「石原千秋氏をフューチャーした理由は、小峰くんがインタビューで述べてくれているので、いいとしましょう。近代文学、とりわけ夏目漱石の研究と、国語教科書の分析で有名ですよね」
安「インタビューでは『テクスト論者』という前提から入るんだけど、そこら辺は説明がいるかね」
梅「加筆過程である程度論じられているだろうね。リズール・レクトゥールの議論なんかも入ってきているけれど、これは市川さんのインタビューの時にはがっそり抜け落ちていた論点だったね。国語教科書の作り手として石原千秋先生にインタビューをしたのは、彼がはじめてじゃないかな? わかんないけど、文フリに出すような本でその問題を扱ったのはたぶん鋭い切り口であったと思う」
安「教育と文学の関係、という切り込み方だね。加筆した原稿をみて思うけれど、市川さんの発想には『リズールになっていく過程』っていうのはたぶんないよね。VOL3で改めて聞いてみてもいいんだけど、教育や国語については石原インタビューの強みが味わえると思う。」
梅「こっちはベタなインタビューという感じで安定感をもって書いてもらってる。構成もほとんどいじってない。」
安「インタビュアーも現代思想を踏まえた論理展開ができるんだけど、あえて『文学』を教養のレイヤーから捉えなおしてくれたのも成果があったかな。例えば『文学』といったら青木淳悟とかよりも、普通は川端康成とか太宰治とか夏目漱石とかを思うと思うんだよね。普通は。一方で、国語教科書が中島みゆきの詩を入れたり、小学校の教材ではポケモンや漫画の読み方について説明したりするして、文学が教養そのものを担うレイヤーは消滅寸前だ。そういうレイヤーについて近代文学専門の二人が、教員どうしとして話してもらった、という感じがでていると思う。」
安「こっちのほうがとっつきやすいし、学校教育から入る面白いレベルの話があると思う。VOL3では現代文学についても語ってもらっているけれど、そっちもどうなるかな」
梅「まだ校正がでてないからわかんないけどねー。国語教科書とか受験のあれこれっていうと、例えば丸谷才一とかが四十才ぐらいのときに盛んにやっていたわけだけれど、最近やっている作家っているのかな」
安「寡聞にしてしりません」
梅「学校教育も大きく変わってきているし、まぁでもここら辺は校正が帰ってきてからということで」
安「ぶっちゃけよく知らないしね(笑)。とはいえ、この問題は衰微し続ける『文学』においても深いレイヤーをもってる。未だに、大江健三郎よりも太宰の方が売れているかもしれないよね。新装版で出した『人間失格』とか。近代文学を教科書的宇宙から切り捨てることは自殺行為だと思うけれど、漱石や鴎外が『古典』になりつつある現在で、文学のイメージを支えるのはいったいどういう作家とか作品とか、あるいは観点なのかっていう。(鴎外の字体は通行字になおしました)」
梅「あと村上春樹。春樹についても語ってほしかったんだけれども、これはまた別の話になってしまうね。春樹すら今は新古典というのかな。チラシで配る予定の文章ではそういう話もしてる」
安「チラシって何部するの?」
梅「100ぐらいかな」
安「少なっ!? 同人誌の印刷数より少ないじゃん」
梅「ま、そういうことです。高校生とか中学生とか小学生とか、もっと名作を読んだらいいと思うよ。読まなくてもいいけど」
安「大人になってから無茶な読み方する人もいるしね。むしろ大人になってジャンプばっかり読んでないで、ハイコストな文学作品を読んだらいいと思うよ。いま作品名思い浮かばないけれど」
梅「百年の孤独、とか?」
安「レムでもいいのかな。ソラリスとか、訳が増補されてでたしね。その増補部分に『ソラリス学』についての記述がある、っていうことの重要性みたいなことを、かつくんが指摘していたし、僕も最近SFをこそこそ読むけれど、文学への入り口とか導入になる本ってたくさんあると思うしさ、あとは読み手の心構え」
梅「中高生なら『背伸び』。大人なら『自省』とかかな? あとは薀蓄」
安「薀蓄を学ぶっていうのも重要なんだよたぶん。過去において小説とか詩とかにはそういう面白さがあったと思う」
梅「古代においてもね」

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