補足というか言い訳。

  • id:kidanaさんのところ、「Gちゃんねる」でこのサークルが(国語教科書と現代文学の中間点)と示されていたことに驚いた。いったいどこのソースに……と思ったらあれだ。キーワードにそんなこと書いてましたねorz 
  • 僕たちの作っている雑誌が「国語教科書」という一部地方でしか論述の対象にならないのに、恐らく日本国民の99%が触れているリトルメジャーの最たるものと、「現代文学」なんてよくわからないものを繋ごうなんてことがそもそも出来るのかわからないけれど、今振り返ってみれば、けっこうこの(教科書と文学の中間)というのは自分たちが目指すものに近いのかもしれません。
  • 文フリに来ている30代や40代には分かりにくく、20代ですら怪しくなっていますが、現代の国語教科書は事実上「社会科学の入門書」となっています。評論の回転率は早くなりましたし、小林秀雄も消えましたし、明治期の擬古文は完全に「新古典」として古典に扱われました。崩壊した文学や国語の全体性を、国語教科書は事実上総合雑誌(昭和40年代とか50年代のね)化することで、現代社会を読み解くヒント集となることで支えようとするある意味では――文字通り「受験」というファクタを除いて――教養主義崩壊後の、最後の教養の砦になっているわけですね。少なくとも、日本で一番読まれている評論は間違いなく国語教科書でありましょう。
  • ハジメテデアウ文芸誌というコンセプトが『S.E.』*1の記述というか世界観を支えるものなんだけれど、何も本当にラディカルで新しいものだけじゃなくて、今まで高度に参照されていたが故に信頼できるもの、それを再度参照することで現在に繋がりうるものを信頼するっていう手続きも一緒に含まれていると思うのですね。
  • つまりあれだ。面白いよって今騒がれているものよりも、いままでずっと「面白いよ」といわれ続けてきたようなもののほうが、自分にとって面白いものにである確立は高いし、何よりもある一時期にしか読めない、若いうちしかわからない文学とか表象ってあるでしょう。そうじゃなくて、自分の少し先までついて行ってくれるような「名作」を読んだほうがコストもリスクもいい。でも今の、とくに若い人や領域違いの人、トランブを越境する「読ませる/読んでもらう/読みたくなるためにどうしたらいいかっ」てことを問題にしたい。
  • でも答えはないんですけどねまだ。
  • それに「じゃあ教養ってなんだよ」っていう話にもなるんだけれど、たぶんひだらすの(というよりオオガラスの)メンバーが想像的に考えるの80年代的な批評の空間であったり、60年代的な教養主義であったりするのかもしれません。あるいはSFだったり。まぁその話もおいおい。少なくとも現代のもの、というより回転率とか消費速度が早いものを教養といって祭り上げていいのかどうかまだよくわかりませんわ。
  • その話もおいおい。って書いておきながらほとんどおいおい話ししてないな。まぁいいやどうでも。

*1:僕たちが作っている同人誌の名前ですね。第二号を今年の冬の文学フリマに出しますよ。