メモ

  • クソゲーとは、みうらじゅんが「いっき」(サンソフト、1985年)というソフトを評価した折に生まれた言葉である、らしい。
  • このほかにも「ダメゲーム」や「ヌルゲー」など、ゲームにおける低評価を示す言葉はあったが、総称としてはクソゲーに勝る呼称はついぞ生まれなかったようだ。
  • クソゲーとは何か。ウィキペディア(D採取日0:17 2008/07/31)では、「ゲームシステム及び設定上の理由」と「プログラム的な理由」「その他の理由」に分けた上で、クソゲーの定義に複数の観点を示している。それらのいずれもが、「ゲームの遊び心地」、すなわちプレイヤーによる評価である。しかし、この視座はゲームを遊ばずに評価を下すオブザーバーの存在を無視しているように思われる。
  • 他のクソゲー関連サイトでも、ゲームの語り心地についての言説は見当たらない。
  • この論では、オブザーバーとしてのゲームプレイヤーを想定し、彼らの「遊び」と「語り」の関係から遊ばないゲームの遊び方としてのクソゲーを考えてみたい。
  • ゲームを遊んでいないがその作品を評価していく力関係こそがクソゲーの、つまり「何かを評価し、その評価が流布していく」ことにおいて重要であると思われる。
  • クソゲーにからむ問題で面白いのは、クソゲーはまれに面白いものとしても表象されうるからだ。
  • ゲーム的な――プレイヤーとしての遊び心地といいかえてもいい――面白さに否を唱える、「ネタ」としてクソゲーは語られうる。それは、「ゲームについて語ることそれ自体が遊びになる」ような場所がゲーム黎明期から既に存在していたことと共犯関係にあって、つまりゲームとは、語ることで遊ぶものでもある。という常識が、「ゲームを遊ぶこと」と「人」との関係を考える上で重要だからだ。
  • ゲーム情報誌の存在が、テレビゲーム黎明期から、ゲームを遊ぶ場と同じぐらい重要視されていたことは言を待たないだろう。ファミ通の発行部数(公称)の圧倒的な多さにせよ、電撃ONLINEの更新速度にせよゲームを趣味とする人々にとって、テレビゲームとは、遊ぶことと同じぐらい語られることによって――それらの言説を受け取ることによって、遊ばれるものであったことを示している。
  • ゲームを遊ばないが、こうした「語り」を受け取る人たちを「オブザーバー」と命名して定義しよう。最近、彼らの力を思い知ることになった出来事が二つある。旧聞に属する話題かもしれないが、ニコニコ動画における「呪いの館」(ヒロシ>>>イエェエエエアア>>>死に様)と「チーターマン2」(三兄弟>>>チータ>>>ビィイン)のムーブメントだ。
  • もう一つは、「プレイ動画」の隆盛である。
  • ニコ動的なネタとしてのゲームの遊び方を準備したのはなんだったのか。結論から言えば、ゲーム雑誌である。インターネットで情報が手に入る前のオブザーバーたちは、ゲーム雑誌という媒体と、口コミ――つまり友人関係――を基準にゲームに関する評価を得ていた。

 

  • ゲーム情報誌においては、ごく初期から、ゲームに関するレビューを掲載しており、そこにはいくつかの観点から作品を点数化する試みが極めて早い段階から試みられていた。ファミ通のレビューに明示されるように、購入前にゲームの面白さを知りたい、という欲求とレビュー評価は裏返しに存在している。これは、読者の購買活動が「前評判」にほぼ完全に依存する映画やテレビドラマとは異なる構図にあるゲーム独自の享受の伝統が、


>>>以下略