アラザル

  • 「批評家養成ギブス」刊(BRINZといったほういいのかな)、B5。189p。表紙は厚紙にエンボス加工。白黒でアラザルの文字とベジェ曲線を利用したアーティな絵柄がある。エンボスで【佐々木敦、批評家養成ギブス】とばらばらに記されていて、さわりごこちもいい。
  • 春の文学フリマ最強の黒船の一隻。佐々木敦ひきいる「批評家養成ギブス」の面子による小冊子。五百円で180ページを超える大著が買えるというすさまじさ。噂では八百部刷ったとか。
  • 音楽評論家(という肩書きよりエクス・ポ編集長のほうがいまは通りがいいかもしれない)佐々木敦の教育をうけたメンバーの論集というだけあって、圧倒的にレベルが高い。巻頭及び巻末が佐々木敦のインタビュー。まぁ、妥当でしょう。
  • 映画、音楽、文芸、演劇、漫画、建築、写真、ダンス、アニメ、ファッションの項目立てがある目次は、それらに批評を手がけるメンバーたちがどのようにコミットしているかの指標でもある
  • というような感じで19名の批評が載る。どれもエディトリアル・デザインにこだわりをもって作られており、正直、すごい。どのようにすごいのかは、書くのが面倒な上になんか悔しいので言わないもん。
  • いくつか、目にとまったものを並べていこう。全部紹介したいが、まぁ『紙面の都合』である*1
  • まずまっさきに高西祐志「□?」の問題提起。フレネシの表現から、ピンチョンの戦略。そこから文芸誌をめぐる諸問題とケータイ小説への未来を探るという論である。序盤はややことばたらずな感じがするけれど、いい。ただし、ケータイ小説をめぐる問題を、「インクの染みかピクセルの違いか」に求めるのは外れているのではないだろうか。本が青空文庫に入ったからって、普通の人は漱石を読むか読まないかの選択に関係しないだろう。メディアの問題ではなく、コンテンツの内容面から攻めてほしい後半の論調だ。そしてルビ付きの「けんい」に対する戦争の仕方を、ぜひ論じてほしい。どうしたら文芸誌とは異なる文章の未来が切り開けるのか、単純にこれは僕が興味があるからなんだけれども。
  • 杉浦大輔「カウンターポイント」。写真と映像と音楽をざふりと繋げた。評論である。ポイントは「風景」と「死」だろうか。ケージと柄谷を連結させる発想はいいなと思った。あとはごめん、主張がよくわかりませんでした。思想の紹介、として読めばよかったのかなorz
  • 小坂真広の「gucci論」は短いが主張が明確で、よかった。gucciのキモノをオリエンタリズムとコピー/オリジナルの転倒から読むという発想。もう一つgucciの社会的な立場とファッションのメタメッセージみたいなところから切り込んだら、面白いんじゃないかな、みたいなことを思った。
  • 諸根陽介「4分33秒のフリーインプロヴィゼーション」。これも僕は不案内な音楽評論だったのだけれど、ケージの4分33秒を積極的に肯定していく論。ケージとデイリーの実験について。

そこで行われていたことは、「聴衆が聴衆であること」と「演奏者が演奏者であること」との混交作業であり、「聴衆は聴衆であると同時に演奏者でもあるということ」や「演奏者は演奏者であると同時に聴衆でもあるということ」の検証、(略)「私が私である」ことへのポジティブな視線である。

  • として、しかしそれらが価値判断にたいする思考停止であると喝破し、その先へ向かうのが杉本拓だという論理の展開はちょっと面白かった。ケージを存在論から読むというのはイケるかもしれません。
  • 近藤久志「chelfitshのこと」もよかった。調査がしっかりしていてよかった。ほかのところもよかった。
  • 西田博至「TO BE OR NOT TO BE」はもっともボリュームがあり熱意があって、でも同じぐらいよくわからない評論であった。一篇にいろんなこと言い過ぎだよっ! ていいたいけれど、この中に溢れているさまざまな示唆的な思索は、巨木に至る根のように芳醇な栄養を蓄えているように思う。映画のことは詳しくないのでよくわからないけれど、東浩紀の「インターフェース的主体」という概念を使って古典的システムの崩壊を宣告するその性急さは、ちょっと焦りすぎかもしれないとは思った。
  • 映画は押井だけで動いているわけではなく、見るに堪えない実写の映画もアニメも、見てもいいなと思う程度の作品もめちゃくちゃに生産され消費されているのだから。大量消費の洪水のなかにあるという前提が抜けている気がする。この消費社会では、読み手が「ある作品だけの影響を受ける」というような論理はもう通らないんじゃないかしら。むしろ一つの作品を名作のロジックと繋げて考えるよりも、大量にある情報群のなかでくりかえしとして表れるものや、ついに繰り返されなくなった情報をピックアップしたほうが方法論的には面白い気がする。
  • ただ、論全体としては非常に火力があって、力強い。「ゴースト」の概念を丁寧に追いながら、それらの不動性や透明性を現実世界のぼくらに反映させる読み。
  • アラザル』のほとんど全てがそうなので、此はむしろ雑誌の特徴かもしれないが、現代思想系の前提知識が必要すぎる。かなり変形、あるいは専門特化した形で思想の論理展開する論が多くて、正直なにいってんだかよくわからんものも少なからずある。
  • それでも「読ませる」のが評論のいいところだとは思うのだけれど、これを誰に読んでもらいたいのかよくわからない。彼らの論がわかるのは、おそらく相当専門的に思想の訓練を受けた人じゃないかと思い、さらにいえば、専門的に思想の訓練を受けた人にとっては「内容は別として」方法論的に退屈なものが多かったのではないだろうか、という印象もぬぐえない。
  • だから、『アラザル』の中では比較的めだたない感想文の羅列の日記のような畑山宇惟「虚構と現実の間にある「日常」を考えるための7日間」の、素朴だけれど、何かを「考える」ための姿勢こそが「考え終わった」論文や評論よりも、今の言説状況には必要な気がする。
  • それでも、圧倒的に『アラザル』はすごい。もう、熱い。そのすごさはとにかく文学フリマでこれを売っている現場にいなけりゃわからなかったかもしれないけれど、これだけのものが書ける人が20人もいるっていうことが、なんかすごい。
  • 買いそびれた人は買う必要がある。
  • あと、正直むずかしくって論旨を誤解してたりするかもしれません。そしたらいろいろとごめんなさい。

*1:文字数の制約ではなく、私の体力が紙装甲で後半にやけくそな評を書いてしまいかねない事態に対する危惧をこのような大仰な言葉でしめしている。