少女症

  • A5、56ページ。エンボス加工のクリーム色の表紙。表には「少女症」と小さく記し、裏には「出縄由貴、中村かほり、三角みづ紀」と大書三段。
  • 文学フリマではジャンルとしては大きな一角をしめるものの、一般的にはそれほど人気がないこともあってなかなか目立たない現代詩。とはいえ、そのぶん秀逸なる作品も多く、三人の詩人がみずからの感性をかけてつくる現代詩オンリーの詩集である。
  • 三人とも地味にほとんどプロであって、受賞歴もある。三角みづ紀さんはどこかで名前をみかけたような気がするけれど、なんだったかなぁ。
  • なかとびらにそれぞれの写真と簡単なプロフィール。それからサイトやアドレスが記される。
  • 実にレベルが高い。抑制と動揺の効いたセンスのいい詩的世界。グロテスクや不信のなかにほのぐらい希望と悲しみが、あるいは底抜けの陽気さのなかに狂乱と絶望があわくにじむ。「詩的なもの」は一般的にはただのファンタジーを指し示すが、ファンタジーを越えてその現在を記す力強さはまさに詩の力だと思うな。
  • 同時にこれらの詩はタイトルのとおりある種の「少女」的なコードを共有している。男性のみる欲望の対象ではなく、内に世界をもった少女たちの言葉の戦いということでもあるらしい。
  • 出縄由貴「難解動物」の初め「片足を失った少女を失った」が個人的に出色。監禁や切断といったイメージの中に、少女が切断された自分の身体を自分で排除したくなるという身体嫌悪の感覚が、これはもうただ、すごい。

おひめさまみたいでしょうと
足を広げる
残る痛みと

  • これは書けない。
  • 中村かほり「完全なものがあるとしても、それは君のことではない」もいいな。こちらは散文詩が中心。「motherless/尿か唾液か吐瀉物か」が傷も目立つがいい。
  • 三角みづ紀「ほんとうはわたし老婆なんです」では「わるいまち」がよかった。イメージという言葉の鎖をかろやかに飛ぶ超える、意味の跳躍がある。

遺体となったきみを踏みつけては
こんにちは、ここがわたしの町です

  • この温度。
  • 意味不明をもって現代詩と思う人々はここに溢れる身体と意思と遠望のイメージを存分に味わうといい。これはいい詩集である。300円は安い。