エクセス

エクセスVOL3

「――なんと、あざやかで、軽薄な、知の戯れ。」などと表紙のタイトル下にちょっくら書かれている。このスタンスが目次の手前に雑多に書いてある「ニコニコ動画*1」の雑多なコメントが表示されている。「みwなwぎwっwてwきwたwZEw」とか「わしのエクセスは108式であるぞ」とか「どう見てもトンデモ本です。ご愛読ありがとうございました」とかとかいかにもな言葉がたくさん書いてある。この工夫そのものについてはそんなにキライじゃない。

  • けれども、「デリダ俺の嫁」というような言葉を平然と書ける神経はどうにも理解できない。一般的には「デリダが好きです」とか「デリダを愛してる」という風に言いかえてもよいのだけれど、ここで現代の今の特定の文化慣習でしか使えない「俺の嫁」という言葉を、一人の哲学者に対して平然

と使ってしまうのは、ニューアカ流れの軽薄な学者の引用を思い起こさせて実に軽薄な印象がある。

  • その軽さが魅力で、そういう批評誌なんですよ。と割り切ってしまうにはあまりにも幼いというか、致命的に弱い議論が散見されるのも事実で、素直に評価できない。対談の12pで、西嶋と高田が「ディープなオタク」かどうかを言い合う無駄な議論があるが、「ディープ」の定義がないのにそんなことを言ってもしょうがないでしょう。「一般人」「オタク」といった概念を平然と使っているのも気になる。批評についても、使用する概念をきちんと定義しながら議論をすすめてほしい。
  • とはいえ批評の二つはそれほど悪くはない。
  • 現代の、しかもローカルな文化を論じる場合、「違うような気がする」という反応だけで議論を飲む読者がいる可能性に留意しなければならない。言い換えるならば議論の論理よりも単純なへの共感が論の根拠になってしまうケースがあるということだ。あるいは、ある文化に対する個人的な思いいれや認識が議論の根拠になってしまうケースもある。
  • そうした感情的なディスクールの中で、知的に振舞うこと。この振る舞いが、たぶんいわゆる「サブカル批評」に求められている。感情と印象を議論担保にし続けることは知的ではないし、知性の要らない批評は遊戯ですらない。
  • そういう厳しい文化状況に対して発言し続けること。この苦労の渦中をこぎ進む誌面として、今後もがんばってほしい。*2
  • とは書いたものの、一番こう、述べたかったのは「小説」である。この「小説」。まずすごく下手である。西尾維新の劣化劣化コピーである。
  • でもなんか、妙に惹かれるものがある。ヘタウマ、とか、光るものがある、とかじゃまったくないのだけれど、つまりそれほどまでに普通にへたくそなのだけれど、なんなんでしょうか。うーむ。悩ましい。
  • 荒波の中のいかだ。そんなイメージの誌面でした。

*1:というのが分からない人もいるだろうけれど

*2:とかいいながら、このブログの記述は原則として印象批評である。フヒヒサーセンww。と書いてしまうので、このブログにおけるたたたの発言は、あまり知的に誠実というわけではない。また、印象批評には、批評というだけではなくて同時代的における享受の資料という側面があることも付記しておいたほうがいいんだろうな。