旅居 VOL02 @阿佐ヶ谷ザムザ

 鳴海康平演出、阿竹花子のソロダンス第二回目の公演であるという。三月18日と19日の各一回ずつ開催された。上演時間は50分程度で、ダンス公演としては標準的なものだろう。
 阿佐ヶ谷ザムザはそこだけで何かの庭であるかのような隠れ家じみた建物の地下にある劇場で、全面木目張りの舞台である。今回は床にホワイトボードを全面に張り、ダストシュートのように奈落を開けたままそこに矢印がかかれている。
 背後はやや尺足らずの白い布のカーテンが設置されて、子供の背の高さほどのところまで木目が見えるようになっている。舞台右手には大型スピーカーが無骨な胴体をむき出しにしたまま置いてある。シンプルきわまりないが、演出家鳴海康平らしい舞台美術であるといっていい。
 観客が舞台にはいると、楽屋になっている二階からフランス語を書いた紙を飛行機の形に折ってとばしている女性がいる。白いワンピースを着たその女性は、もちろんダンサーの竹井だ。客入れのことなど忘れたかのように気ままに紙飛行機をとばしているが、なんと書いてあるかはわからない。
 女性が降りてくる。舞台に落ちているいくつもの紙飛行機を拾い上げると、それをもったいないものを捨てるかのように出すとシュートに投げ捨てた。一つだけ舞台奥に残っている紙飛行機の後ろに、ジェット雲をひくようにフランス語を書き始める。言葉が蛇行しながら、ダストシュートまで続いて、それで舞台美術が完成だ。
 ダンスはむしろ正統的なコンテポラリーダンスで、複雑ではあるが、いくつも反復動作を組み合わせた作りになっていて見やすいが複雑だ。舞台全体を使いながら、アシンメトリーで蛇行的なダンスを繰り広げる阿竹花子の空間構築はきわめて優れていたし、手を大きくも小さくもないスパンで振り回す所作や氷面を滑るように移動するテクニックはバレエを想起させるがむしろ伝統芸能に近いコンセプトを感じて楽しい。
 時折まぶしそうに手をかざす所作や、寝ころんで天をを仰いだり、横になったり、身体はあきらかに左右方向(平面)への展開をおこなっているのに観客がそれによって上下(立体)への空間を感じるという仕掛けはすぐれた演出と優れたダンスとによって初めて可能になるものだろう。
 けれども、主題的な旋律や動作、あるいは物語性といったものを感じたのはダンスそのものよりも音楽だったといってよく、その意味ではダンスをみにきた、というよりも無言劇の新しい形を見に来たという感じがあったし、鳴海康平と知り合いであるという一点においては、それはむしろ鳴海の東京的価値観への決別を意味しているようにも思えるのであった。
 途中、音楽が変わって人々のざわめきに機械音のノイズが混ざる音響に変わるセクションがあった。序盤に展開されるそれは、そこで初めてダンサーがダンスらしいダンスを始めるのだけれど、前にでて軽く踊り、左へステップを踏んでから、舞台の奥へとスタスタと退く、それからまた左へステップを踏み、そこで寝転がる。この反復を七回ほど行っただろうか。
 反復の中でもっとも影響を被るのは寝転がる動作だ。息があがる。呼吸が荒くなる。ダンスの反復はそれだけで「寝転がっている」という安楽の環境を揺るがしてしまう。僕らはここに「トウキョウ」を重ねてみないわけにはいかない、人の速度の速さ、機械音の反復と、生命のリズム(心拍音)が機械音によって規定される暴力や脅迫への抵抗を「ダンス」という形式によってなんとかしようという試みがそこにはあって、寝る、横になることで苦しみがますというトウキョウの構造が改めて浮き彫りになっていたように思う。
 終わりのセクションでは縛っていた髪留めをほどいて踊る、といった仕掛けもあるのだけれど、やや見透かされた演出だったかもしれない。というか、そうするのであろうな、とは舞台が始まったときから思っていた。なんとなく女性ダンサーが髪留めをしているとかならずそれをほどく、というのはもはやセオリーなのではなかろうか。
 終わりも本当に唐突で、唐突かつ唐突に二階へ戻っていく。それも余韻のある踊りにややふさわしくないようにも思えて、出入り口をがちゃりとあけてお荷物お忘れ物なきよう、と注意を促す制作さんの言葉に、いささか現実に引き戻されるようなつらさを感じなかったわけではない。

 舞台はとにかく身体性の高いダンサーが、芸術的な舞台空間できちんとコンセプトをもって踊り、音楽のチョイスやMIXはもはやそれだけで成り立つほどのクオリティである。総合点ではケチのつけようがない。
 このご時世に芸術らしいことを芸術として提唱できる、数少ない希少な演出家である鳴海康平らしい美しい舞台だった。同時に「だからこそ」の欠点を感じてしまう。一つは色彩のなさ。それに付随する個性の埋没である。
 白い舞台と白い衣装はたしかに純粋に美しく、グロテスクさやカーボンコピーであることが称揚されたレディ・メイドの時代の作品よりも素直に芸術性が高いものの、そこにある芸術性は常に総合点でしか存在し得ない。それだけ熟成されたテクニックであるということでもあるが、ダンスを見る、という先入観は少し捨ててかかったほうが楽しめそうだ。そういう意味ではややもやもやした感を残してしまった。
 それが「難点」のように見えないのはひとえにダンサーの力量によるものであろう。無表情で軽快、性的なにおいがないのに信じられないほど蠱惑的で、一部の隙もない。なにより、この白い舞台空間と白い衣装をまとっておきながら、その時空間に飲まれていない存在感!
 そういう意味では「旅居」は理想的な組み合わせによる魅力的な舞台でもあるし、呉越同舟の舞台であったかもしれない。その相克がおもしろい。
 いや、そうやって考えてみると、実はこの舞台、一番の勝利者は実は音楽だったのかもしれない。音響は和田氏とみた。