SENTIVAL!!

ひょんな事から板橋区にあるフリー演劇空間「SENTIO」の演劇祭である「SENTIVAL!」のフリーパスを手に入れてしまった男の備忘録そのいちである。
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サイマル演劇団「女主人」

心地よさと速度には蜜月の関係がある。
 ウーゴ・ベッティ「女主人」という相当レアな作品を通じて、サイマル演劇団は速度と心地よさを切り離す暗闇を見せようとした。
 舞台はいつかはよくわからない。男やもめが後妻をめとり、前の妻とも間に生まれた娘と後妻との間に強い確執がうまれる。
 後妻と娘は相互に似通いながら、二人は家の覇権を争い、男と女のみじめさ。生きていくことの困難。孤独と狂気。旅に出る、旅に出るといってどこにもゆくことができない閉鎖感を描きながら破滅していく物語である。


 舞台はアクリル板の下にライトを敷いてあり、光が空間の区切りになっている。部屋の区切りでもあるし、人の歩ける範囲でもあり、通じ合わない言葉の射程も表しているのだろう。
 赤井の演出では徹底してこの「区切り」を越えられない苦しみを描いている。切実で大量の情報が流れるダイアローグを、相互に目も合わせない俳優たちが圧倒的な速度で交換してゆくその速さ。極限まで高めたダイアローグの速度は、もはや独白と何ら変わりがないのに、俳優たちは熱のある暗闇のなかで、ひたすらに観客が受け取れる情報量の限界を超えた、ひたすらな饒舌が続いているのである。
 この演出は、ウーゴ・ベッティの世界と絶妙な距離感を保っている。原作との距離を感じさせながら、孤独というテーマの発露において限りなく接近した赤井演出のたくみは、古臭くも新しい何かとなっていた。
 速度の快楽がもてはやされる10年代の演劇において、アングラ劇的な闇を、よりアクチュアルな形で表現/定義し直そうとする試みは古くささを周回させて刺激的なものですらあった。舞台上の緊迫感と、張り詰めた糸の交わらない寂しさに目を奪われてしまう。
 ただ、その演出は少々単調でもあり、俳優たちの熱量を引き出しきれずに終わった感じも、独白としての台詞がいささか多すぎた気もする。早い台詞回しできっと聞き逃しただろう女主人たちの悲鳴を正しく聞き直したくて、戯曲の原作が読みたくなった。

  • 原作:ウーゴ・ベッティ
  • 構成・演出:赤井康弘

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aji「走れメロス!」

 演出家と女優のユニット「aji」のセンティバル参加作品は「太宰治走れメロス」を読み上げていく群読劇だ。演劇というよりも所作のある朗読といったほうがイメージをつかみやすいだろう。
 女優二人男優二人の四人がSENTIOの空間を所狭しとはしゃぎ回る。学校のチャイムから始まる群読劇の様相は、背景に「がっこうのきょうざい」である走れメロスの権力関係を意識させる。が、そこを批判するという意図は殆ど感じさせず、いまどきの劇団らしい、学校好きなオーラを感じさせる。よきかなよきかな。
 
演出は一貫した何かがある、というよりも様々な手業が尽くされたもので、泣いて笑って走って踊って、ケーキを食べたり水に花を投げ込んだりと演出家の才覚と俳優たちの表現の幅広さを感じさせた。俳優たちもきっちりとしたアンサンブルを展開して見やすく、またテキストも多く既知のものであって安心して見ていられた。
 とはゆうものの、演出の手技の多さが仇となって、いささか意図が伝わりきらないままに俳優たちが動いていた感はいなめない。その演出もよいところ、悪いところがくっきりとでていた。Ipadを使ったり、ケーキを食べ始めたりとなかなか驚く仕掛けもある一方で、冗漫で無駄な動作も多くあったその「善し悪し」はたぶんテキストと動作の距離感によるだろう。
 「走れメロス!」は合理主義的に読むか、感傷的に読むかで相当な読みの幅が生まれる作品であるが、島の読解は感傷的なそれであったように思われる。演劇作品としては「走れメロスとの距離感」をどのように取るのかが勝負であったのだけれど、いささか「メロス」とべったり寄り添いすぎていたのかもしれない。どこかでテキストから飛躍して演劇作品としての強度を見せてほしかったなぁ。
 
 普段はオリジナルの戯曲を展開しているとのことで、そちらも見てみたい。

  • 原作:太宰治
  • 構成・演出:島貴之

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百景社 - 椅子〜E・イヨネスコ『椅子』より〜

 イヨネスコがブームである。と僕がゆってしまうとマイブームというだけかもしれないが、イヨネスコの不条理劇がかつてないほどアクチュアリティを持ち始めたことは言ってもいい。
 つくばで活動する百景社の「椅子」はイヨネスコの原作に割と忠実である。舞台には黒テープで囲った窓、いくつかのパイプ椅子、観客席から向かって左側の壁面には扉の映像が映しだされている。男二人で展開するイヨネスコは、まさしく芸達者という感じの二人が展開するウェルメイドな仕様となっている。演出のキモは舞台の作りにあって、ツイッターを利用して「弁士」の到着状況がわかるという仕掛け。つくばから駆けつけている弁士は、必死になってつくばエクスプレスからツイッターを投稿し続けているわけだ。
 その上には数字があって、椅子の数が示されている。舞台が進むにつれてどんどん増えていくパイプ椅子の数と連動しつつ、最終的な数字の表し方にはなかなか面白いものがあった。
 話の筋としては、何か人類を救済するすごい作戦を立てたらしいおじいちゃんが、おばあちゃんと一緒にあらゆる人々を読んで発表会を開くという話。そこでは「自分の代わりに全てを語ってくれるはずの弁士」を「待ち続け」、あらゆる人々が登場するなかで皇帝が現れる。惨めな生涯であったと叫ぶ93歳の老人が皇帝陛下万歳を叫び続けるラストシーンには不覚にも涙がでそうになった。
 この老人の姿に自分の姿を重ねる人は消して少なくないだろう。最後の最後、私の「皇帝陛下」の来臨と、その栄光のうちに全てが余生だったような人生が報われるはずだという物語。そして弁士は・・・・。

 百景社の俳優二人が本当にたくみで存分に楽しめた。絶妙の呼吸、存在感の緩急。直球勝負の演出にストレートに答える俳優たち。ああ、劇場。お腹いっぱいに満足して帰宅。

  • 構成・演出:志賀亮史

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