こゆび侍「Sea on a spoon」@王子小劇場

こゆび侍
http://koyubi.chips.jp/

 そこは夜の海岸のように暗かった。満席のパイプ椅子の列をくぐりぬけて、亡霊のように佇むセットの間から潮騒の音がした。僕は最前列の席に腰掛け大量のビラとパンフレットを読もうと、照明を探して天井へと視線を転じたとき「それ」に気がついた。
――天井にぶらさがる、巨大な輪。市役所の内部を模したセットの、ドアの上部に飾り付けられた深い切れ込みをもった輪が不気味な色の照明に照らされて、僕はそれを月だと思った
 こゆび侍の本公演を見るのはこれが初めてで、けれどもテクスト「を」やる物語性のつよい演劇に定評がある劇団だ、という話は聞いていた。客入れの、静かな興奮が舞台を包み込んでいる時間にも、物語を速度を予感させた。その月輪と、絶え間なく流れる潮騒の音の神秘がその舞台が特別な空間であることを静かに示している。
 舞台が始まると、月輪の切れ込みに人が立っていた。ライトの照明がまた輝きを薄めて、彼女の独白が始まる。


 彼女はまだ幼いまま、自らを救世主になぞらえて、人々を導いていった。しかし、村の人たちも彼女も見たことがなかったという海にたどりついたとき、そこが楽園だと思った人々は、塩に――ナメクジのように――溶けて行ってしまったのだ、といった。
 そこで彼女が考えたのは自罰であったと、悲しみだけを潜ませた声で述べる。嘘をついて救世主を名乗り、誰もすくうこともできずに自らが塩に溶けることもせずに、生きてしまったことについての懺悔が、物語の冒頭である。
 
 そして淡い光が舞台を包み込み、その光が紡ぎだす「水面」が、物語の時間を「現在」へと戻していく。

――演劇の舞台は原子力発電所がある町の、小さな役場である。その町は発電所ができてから過疎が進んでいて、そんな過疎の町に人を呼ぼうと大きなロックフェスの開催が企画されている。
 その市役所に、一人の女性ジャーナリストが乗り込んでくる。彼女は、市役所で働く宇見という女性を、かつて自らを救い手であると名乗り、ひとつの村の住民をすべて消してしまう事件を起こしたのだと糾弾する。
 動揺する宇見をかばう市役所の人々の優しさは、その裏にさらに巨大な計画を隠している……。

 大胆不敵な物語の構想に、これでもかと秘密と裏切りが詰め込まれて、サスペンスドラマとしても隙のない息をのむ展開が続いていく。大がかりなセットや衣装があるわけでもないのに、その舞台の向こう側でとんでもないことが行われているというスリルがあって舞台からまったく目が離せなかった。
 それは時に荒唐無稽にすら聞こえてしまう話なのだが、俳優たちの表情や動作はとんでもない規模で進む物語の現実を、等身大のままの出来事として描き出す。訓練されてきちんと立てる技量の高い俳優たちの行為。
 ふりの大きな物語ながら、その描こうとするテーマや社会とのかかわりや、人々の希望や絶望や、愛のありかたは難しいものではなくて、むしろ人が生きる中で普遍的に感じる衝動のようなものではなかっただろうか。僕たちは巨大な事件の裏側に、そのような人々の感情を見ている生き物で――というよりも、むしろ人々の感情こそが巨大な事件の契機になりうるのだろう。だからこそ、巨大な事件の裏側にあたる市役所が人の感情を発露させる現場になりうるのだろう。
 最後にすべてが終わったときに、行き場のない感情だけが狂気のように渦巻いていく場面で、彼らの笑い声を救いあげる宇見の微笑みが印象的だった。
 そうした感情を後からすくいあげることが、罪や証言になる。そうした証言を語る場でも、罪を語る場でもある月の輪っかが、実は「スプーン」なのだということに気付くことができなかった。家に帰って熱にうかされたまま購入し亜t戯曲のページをめくって初めて知った。

 舞台を一見した感想は、とにかく物語の加速力とそれを動かす俳優たちの技量への感激で埋め尽くされる。大ぶりで豪胆なプロットを、一人一人が抱え込む深い心の闇と混ざり合いながら進んでいくスペクタクルは派手な演出や大がかりな舞台上の仕掛けはいものの、原発のある町という観客たちの未来や現在にあり得たかもしれない状況の下で、そこに生きる一人一人の存在感が舞台の外側で起こる〔出来事)を確かなものにしていたのだ。市役所で働く者、町内会の会長、原発で働く者、原発のPR施設で働く浴衣の少女、ジャーナリストたち。
 舞台上の人部tうでのなかで特に深い印象を残したのは、工藤史子が演じた原発PR施設「げんパーク」の広報員、真希だ。他者への残酷さと姉への思慕を秘めた豪胆な演技と存在感に魅せられる。かわいらしい声や、少しませたような不敵な態度がとてもよい。
 女優もよかったが、男優たちの好演が光っていた。
 しかし、俳優たちと同じぐらい、この舞台の見どころはその舞台セットと圧倒的に美しい照明効果だろう。月輪だと最初に僕がのべた上部のスプーンに映し出される照明がとくに美しい。その荘厳の中で語られるのは日常の言葉ではなくそれが意味をもつ「証言」や「断罪」なのだと、観客に訴えかけていた。演劇ならではの、緊張感のある言葉が詩のように重くひびいてくる瞬間だ。

 巨大なセット、巨大な罪、巨大な出来事に巨大な計画。その大きさに何かがみあっていない。毎日の日常を過ごす中で本当にそんなことを思いつくのか? という疑問も物語の筋だけを追っていけばありうるのだろう。僕らがこのスケール感を実感として感じるのは難しいだろう。そして重い。重たい舞台だ。人間の関係や、その背負う罪。けれども、この重さも僕らにはなかなか実感できない類のものではあったかもしれない。
 そうした重さに引きずられずに、重力にあらがって救われることを主題としていて、その主題を大規模に、折れることのないプロットで見せつける脚本の力量と、その効果を最大にあげる舞台セット・俳優たちを備えている。演劇としての基本がものすごくしっかりした演劇だった。だから、観客に残す観劇後感はそうした基本的な部分を除いてしまうと、意外なほどあっけないものになってしまうかもしれない。そのあっけなさは、人間は他者の苦悩に思いのほか興味をもてないからで、町や都市や、原発や社会との関係や、原発のありかたやテロリズムへの施策や愛の重たさとは全然別の質量を宇見に持たせられなかったからではないだろうか。彼女の、ほとんど機械的ともいえる献身的な態度をみて、そこにいるのがまるで人形であるかのような、悲しいぐらいにあっけなく消えていなくなる霞のような印象しか残せない。ここまでいい芝居になるのだから、もっと贅沢に傲慢になってもよかったんじゃないかな。

 けれども、それでいいじゃないか。何かいいたくなるような演劇ではない。「批評」をしたくなるような場所ではない。人が目の前にいて人がなにかすごいことを起こしている。直接目にすることができるモニター越しではない出来事と行為の洪水の中で、ただひたすらにその快楽に溺れる贅沢が気持ちいい。むしろ、その気持よさを感じさせてくれる舞台であって、ただただ俳優や舞台がよかったという満足を与えてくれる。
 見て損はない。若干の不備や演出の物足りなさもあって、K点を超えならず、という評価にしたいものの、こうした「うまい」演劇は、いつだって見ていて気持ちがいいもので、これは本能に訴えかけるものなのだ。
(安倉儀たたた)