ジエン社 第三回公演 大怪獣サヨナラ

  • さて、先日、S.E.VOL1にも掲載されました、作者本介の『大怪獣サヨナラ』が千秋楽を迎えたようです。作者本介のブログを見る限りでは大入り御礼。チケットも売り止めという大盛況っぷりだったようです。さて、ジエン社の演劇には「ブロガー割引」という価格設定がありまして、ブログにジエン社の芝居について書くと200円割り引いてくれるというスペシャルなあれなのです。なお、劇場では『S.E.VOL1』もちょっとだけお目見えしていました。雑誌よりもポップのほうがでかかかったです。

作者本介の進化がとまらないっ!

  • まず作者本介とは何者か簡単に書いておきましょうか。
  • 2002年ごろだったでしょうか。3年ごろだったでしょうか。ある日突然早稲田大学文学部に謎の張り紙が大量に張り出されました。続いて、謎の男がダンボールをかぶって学内を闊歩しはじめたのです。あるいは、立て看板に自ら張り付いて見せたり、他の劇団の芝居を「みるな!」と当該演劇の日時、場所、値段、出演俳優スタッフ演出家脚本家の名前入りでバッシングしたりと大騒ぎ。それをやらかしていたのが、謎のサークル「自作自演団ハッキンネン」――すなわち、作者本介だったのです。
  • その作者本介が自演団をやめて一人で勝手に「就職」。そこで誕生したのがジエン社だったのです。ややエンタメ寄りながら、激しく現代演劇の可能性を信じるスタンスの小劇場演劇。この距離の詰め方に僕は感動しますね。
  • 彼の芝居を前三作を見ています。そして、今回の『大怪獣サヨナラ』はそれら前作を大きく上回る出来であったように思います。作者本介はたぶん二つのものを見ていて、戦っている。ひとつは差分。もうひとつは自分。
  • 差分というのは、演劇がもちうることができるかもしれないリアリティ――社会との距離感だったり、身体の使い方であったり、話の筋であったり――を、どうやって持つのかという疑問。いわば、現実と現実ではない演劇との距離感なのでしょう。頻出するジャルゴン、連続する言葉遊び、断絶する会話、2ちゃん語、ニコニコ動画の言語のオンパレード。それらはある世代やあるものたちに共有されても、別の視点からはまったく共有されない類の、ジャルゴンです。まったくの他者には、共有されないからこそ、それらはむしょうにリアルなのです。そんな風に感じさせる、悲しい引用の羅列がジエン社の芝居にはあるように思います。
  • もうひとつの自分は、そのリアリティを自分の視点から見るという作者本介の身体の問題なのでしょう。S.E.には挿絵として12人のキャラクターがでています。しかし、舞台には13人目の「男」がたちます。男は、超越的な舞台の創造主になれるはずなのに、そうしない。自ら身体として舞台にとびあがることで、自分もまたそのリアルを引き受けています。「リアルを引き受ける」ことを引き受けること。
  • リアリティは誰かの視線の中で作られるものです。作るのは誰か、作ってしまうのは誰か、それをリアルなものであるとしてしまうのは誰か。それに自覚的な者だけがこのようなヤンチャをするのでしょう。何を、「誰が」見ているのか。「誰が」に比重をおくことができるものの、戦いがこの舞台にはありました。
  • そして、「誰が」に超越的な権力と支配者を置いてきたのがいままでのある種の文学的な流行であったように思います。しかし、ジエン社は自演のとおり、その「誰が」に自らを代入することをためらわないようです。その戦いは、自己愛であったり私小説であったり、ある意味ではとても古臭い戦いに見えるのかもしれません。けれどもこの舞台には他者がいました。だから、これは古臭い自己と社会との戦いではなく、視点としての「私たち」をめぐる、自己認識と他者との交流を探る戦いなのです。

舞台の構成、話の話。

  • 舞台は明石スタジオ。都内でも有数の高さを誇る芝居上です。学校の教室をモチーフにしたセット。中央には巨大な黒板。舞台むかて左端に、コンセント。L字の廊下の角に位置する教室のようで、舞台手前のスペースは役者が移動する花道になっています。舞台右手が教室の出入り口。窓の外は時折赤く光り、東京が焼けている情景を想像させます。
  • 舞台の使い方は非常にうまかった。けれども、ニホエヨが黒板にいろいろ書くシーンでは、チョークが少し細すぎたかもしれません。
  • この舞台の特徴は、とにかく学校の教室であるということ。教室という場所を祭儀の場所として作り直したことにあるのでしょう。授業や日常の学校生活で使われる教室空間を、休校の日に大の大人たちが忍び込み映画撮影をしたり大騒ぎしたりする場所として構想する。なにかが起こりそうな場所として、作り直す。
  • 彼氏彼女の事情』には「教室のドアを開けると、すべての感情が詰まっている」というような言葉があったような気がしますがそれは日常を過ごす教室のイメージなのでしょう。言い換えるならば、『大怪獣サヨナラ』は「教室のドアを開けると、そこには何もなかった」それなのに、誰か、いた。

役者の味と走り方。

  • 守り神先輩役の、渡辺いつかがすっげーかわいかった。
  • ユリアン役の奥野亮子もとてもよかった。あ、制服きてるときね。
  • しかし、最強はウー役の善積元だ。圧倒的な挙動不審。絶対的な意味不明。しかもプチアフロ、っていうか、おまえの髪型はいったいなんなんだ。というキャラ。芸がある、とはまさにこの人のための言葉であろうと思う。彼のような役者は、ひとことでいって面白い。なんだか声が高いし、背も高いし、不思議だし、けれども演劇的世界にきちんとグリップしている。そんな立ち方を心得ている役者だと思った。
  • テレビ局関係者よ。彼はほんとにいいですぞ。

傷だらけの傷

  • 舞台としての完成度についてはいろいろと問題がないわけじゃない。シーンの展開の切り回しはあきらかに前作のほうがよかったし、違う話が三つ入っているかのようなある種の間の悪さ。そしてなによりも、大怪獣を表象しきれていないのではないか、ということである。舞台の外で起こる大きなもの、大きなことを「こそ」描くことで、社会という目に見えず音にも聞こえない実体と向き合ってきたジエン社の演劇が、ここに来て何かとても大事なことをいいかけて、口をつぐんでしまったような感じをうけた。
  • 最後に登場する男は、たしかにあの怪獣に言いかけたことを言いそうだったのにやっぱりいえなかったらしい。電話にでないあいつの話を、あっさりと舞台の上の出来事と結びつけてしまったこともなんだか残念だ。
  • カメラの使い方も、悩んでいるようだった。
  • それでも、いままでの中でいちばんいい芝居だった。いや、このように悩んでいること、答えがでないことを舞台の上でやることこそに、意味があったのかもしれない。簡単に答えをだしてしまうマスメディアの応答や、責任の名のもとに答えを要求する批評の暴力と違って。

次は、どうでるっ!?

左隣のラスプーチンは小劇場を応援します。

  • というようなことについていろいろ書こうと思ったけれど、ちょっと多忙なので今日はもうここらへんで終わりに、ね。させてくださいよ。ね。ごめんね。うん。ごめん。悪いってわかってるんだ。でも、だめなの。またいつか書くね。がんばって、書くね。
  • 左隣のラスプーチンは小劇場演劇を応援します。チケットくれれば時間があえば見に行きます。たぶんっ!