クソゲーの話。
- さいきんクソゲーについて考えている。クソゲーとは何か。なにゆえクソゲーと呼ばれるのか。もうひとつ。なぜ僕らはそれをクソゲーだと思ってしまうのか。いま・ここにおいてクソゲーとはなんでありうるのか。
- インターネット登場前、クソゲーといえば「失敗した、だまされた」というニュアンスを含む罵倒の言葉であった。バブルの余波が寒さに変わる前、80年代中盤に登場したファミリーコンピューターのソフト一本一万円の品物のあの無駄にでかいケースを開け、ファミコンに差込コントローラーを握り、ゲームは遊ぶものであるとかたくなに信じる少年少女たちは、ちかちかとまぶしいゲーム独特の光沢を感じて呆然とする。ねばねばとした感想をお茶を飲み干してまとめて、憎悪とともに吐き捨てる。
- つまらん。と。
- 一万円の価値がよくわからない小学生にとってもお金の重みを知る中学生にとっても、テレビゲームは、本来面白いものであることを期待させた。ゲームというのはおもしろいものなのである。
- 学校教育の現場では「特急下校」という言葉が流行した頃かもしれない。ゲームやりたさに高速で帰宅する子供達を先生がたは「子供がクラスから逃げ出した!」と捉えた言葉だ。学校には部活もあるのに勉強机もあるのにいろいろあるのにそんなものよりゲームのほうがおもしろい!
- うん。
- テクストに対して、その期待をマイナス方向に裏切られるというほとんと人生のアナロジーでもあるような出来事はわりと茶飯事としてある。テレビゲームもしかり、つまらないという出来事。この出来事の衝突を、ゲームというテクストの側にそのつまらなさの原因を求める。そのときゲームに張られる退屈を押し付けた罪のレッテルが、クソゲーであった*1。
- きたって現在。ニコニコ動画に2007年10月16日 01:11:00、ある作品が投稿された。みなさまお分かりでしょうか。「チーターマン2」である。
- 音楽だけがポップ。数日間、日本国民(ニコニコの住民)の必死の調査が行われ、チーターマンの正体を暴かんと多くの人間が情報調査に明け暮れた。その成果はウィキペディアに残っている。が、今はどうかしらんけれど。
- とおもって思わず巡回してしまったら、いまは何か、人生につかれた人たちが集うアポロの悩み相談みたいになっておった。なぜだかわからないが切なくなる動画だ。
- なんの話だっけ。
- そうそう。クソゲー。「チーターマン」の興奮も冷めやらぬ、っていうか誰か興奮してのかどうかよくわからないけれど、2008年01月02日 12:33:39に新たなるクソゲーが投稿された。「古いHDDを整理していたらカオスなゲームが見つかった」のタイトルといえばもうみなさま、ていうかニコ住ならおわかりの通り、呪いの館である。ヒロシが大活躍するやつね。
- この2作品は、ネタとして消費され享受され、まあさまざまなヴァリアントを生み出しながらどうにかなったり忘れ去れたりするのだろうが、ひとつだけ重要なこととして「遊ばなくてもクソゲー」として認知されているということである。「呪いの館」はクソゲー言説はそれほどないけれど、チーターマン2は明らかに当時のブログなどを追っていってもクソゲー扱いである。
- YOUTUBEにおいてはドイツ生まれのレースゲーがクソゲー検索でひっかかかる。
- ゲームを遊ぶことで実感する「クソゲー」と、ゲームを見ながら「クソゲー」と思うネタの違いについて、考えている。
- てかもう眠いから今日はこのへんで勘弁してください。
*1:かもしれないしそうじゃないかもしれない