表紙と挿絵は文章ほどにものをいい。

  • 定期更新日ですね。おはこんばんちわならー。とはいえ、この更新が行われるのは深夜になって、あるいは火曜日をまたいでいるかもしれません。いま、学校へいく電車のなかでポチパチキーボードを叩いているのですが、ノートパソコンというのは本当に便利なものですね。作家の中には電車のなかでないと書けないという人もいると聞きますが、ノートパソコンは作家と批評家と学者と編集者を書斎の外へ連れ出したのかもしれません。
  • あと、ですます体とだである体が混ざってるのはクセです。悪い癖だとはかけらもおもっちゃいませんがね。きゃヮとか書き始めるのも時間の問題かもしれませんが、正しい日本語を使おうといって大騒ぎするアホウを相手にする必要なんか感じません。
  • さて、先週の続きについて少しだけ述べておこう。ただ一言断っておかなければならないのは、このブログで展開される僕の思考は基本的に定期更新の穴埋めのために行われるのであって、そこまで強固にまとまっているわけではないのです。言い訳っぽく感じるかもしれないけれど、このブログを思考の変遷としてみるならば、ときおり矛盾もあるだろうし、考えが変わることもあるかもしれない。どこかの段階で『S.E.』にまとめるかもしれないけれど、それはVOL1ではないだろうな。
  • 表紙と挿絵について語ろうとして前回はいささか失敗したかもしれません。今週は「リアリティ」と「本棚の位置」というキーワードをつかって、表紙と挿絵、あるいは装丁と本作りの中身について考えてみたい。
  • インターネットが発達した現代でも本屋さんは健在です。電子書籍は大苦戦する一方で、CD屋は崩壊の危機にある、といわれていたりもするようです。アメリカではHMVの倒産を皮切りに、iPodショックがさんざんにとりだたされたことは記憶に新しい。
  • ではなぜ電子書籍が苦戦するのか。この間任天堂DSで「日本文学全集」がでました。お値段たったの2800円で、百冊にのぼる日本文学の名作がよめるというウリで、一部地方でちょっとした話題になったりもした。けれども、新刊書籍でのネット販売はふるわず、もちろんいわゆる「携帯小説」はカウンターの回し方にデマがある疑いをもたれながらも相当な人気を誇るものがでています。YOshiの作品がそこから書籍になったり、あるいはブログが書籍になったりする例は枚挙にいとまがないでしょう。
  • ではなぜ、電子書籍が苦戦するのか。理由はいろいろいわれていますが、僕はそこんところに「表紙」の問題がある気がします。
  • よく考えてみればわかることですが、僕たちが求める本には「装丁と表紙」と「中身」しかないわけですね。たとえばお料理の本を買いにいくとする。本屋さんにはいろんな本があり、分類別に棚に置かれ、ぼくらはその隙間と人の間を縫うようにあるく。目に留まる。タイトルに「地獄絵図」とかいてある本はまず「お料理の本」じゃなかろう。次にラノベのコーナーも通り過ぎ、漫画のコーナーも通り過ぎ、後ろ髪惹かれる思いでスピリチュアルのコーナーも通り過ぎて、レシピの棚に向かう。レシピの棚の本を手にとると、そこには大体おいしそうな料理か、おいしそうな料理を作る人の写真ないし絵がのっていて、あらあらこれはステキ、一冊かっていこうかしら、なんて案配になったところで、料理の本の棚におどろおどろしい地獄絵図と腐乱死体の乱雑した『地獄少女』という本ががひっそりと置かれて居ることに気づく。
  • さて、ここであなたは『地獄少女』を料理の本だと思うでせうか。
  • IN本屋。あるいは図書館。わたしたちは多かれ少なかれ、どのような本を買うか、どのような本であるかを判断する材料に「本棚の位置」と「表紙」をみています。いうまでもないことですね。そして、それこそが本の存在を可能ならしめる要素であるともいえます。つまり、表紙と本棚の位置の存在によって、本がどのような内容をもつのかを類推させるのが、本を選ぶという行為だと言える。
  • とすると本は選ばせるため、撰ばれるため、「表紙と本棚」にある種の共犯関係が生まれてきます。前回にだらだら書いていたところでいえば、エロ本とラノベと一般文芸への移動は、実は本棚と表紙の移動も兼ねていると考えられるわけです。
  • 本棚には類でまとめられた本が並ぶことになっていて、それは図書館の分類や、あるいはジュンク堂さんが見世物としてたまにやっている「オル棚」(一般的な分類ではなく、特殊な分類による棚づくり)などがありますが、棚を作るということは、「どのような本がはいるのか」を規定していく仕事で、別の言い方でいえば「どんな表紙が並ぶか」の言い換えにもなるわけです。
  • そうすると、ラノベから一般文芸への、表紙だけ差し替えて移動というお仕事は表紙による規格と棚の移動という側面をもつわけです。漫画やラノベや外国産ファンタジーが多数の巻をだすおり、「レーベル」を統一して出版する「表紙の規格化」が行われるケースがあります。まぁコバルトとか、富士見とか、別に白水社Uブックスでもいいけれど、ああいうのを想像していただけるとよいと思われます。多かれ少なかれ、そうした文庫の規格はその文庫全体の内容を規定しているということはみんな気づいているとおり。
  • 表紙がレーベルの規格からスピンアウトして一般文芸に移動することは、いままでの棚から別の本棚に移動する可能性を示唆され、さらに、別の読者層に読まれることも可能性として含まれ、さらにその作品が本棚にあることによって違う印象によって読まれてしまうことさえありえるわけです。
  • 裏返していえば、その表紙とレーベルによって「私たちが知っているその類の本」であることを確認しながら僕たちは本を読んでいるのかもしれない、ということです。
  • ここで電子書籍の問題に戻ると、電子書籍には表紙がありません。それと同時に、表紙が規定する本棚もないのです。いちおうURLやウェブサイトに商品として陳列はされますが、その陳列が私たちの知っている本棚とは明らかに違うことがあげられます。そして電子書籍として手に入れた後の書籍が、わたしたちが読みたい「その類の本」であることを確認できない空虚さがついてまわります。表紙は「その類の本」であり、「その類の本」を手に取る私たち自身の証明でもあるから、とはかっこのつけすぎでしょうけれど。
  • だらだら書いてきましたが、電子書籍とは異なる形で本屋の本棚とはことなる本棚があらわれました。
  • amazon.comが、それです。
  • 次回は、amazon.comか、もしくはもうちょっと表紙の問題と付き合い、それから同人誌やミニコミ誌についてあれこれ書いてみようと思います。
  • それがだめそうだなーって思ったら、ニコニコ動画について書くかもしれません。よくわかりません。よくわかりませんが、文学フリマが十一月十一日に近づいていることはたしかです。
  • 乱文につきあってくれてありがとうございました。
    • 間違ってるところがあった。でもまぁ直すのはまたこんどで。