更新日ではないのですが。

 久しぶりに更新してみますね。

[たたた][エッセイ1]表紙と中身のあれやこれ。

今日はちょっとしたエッセイぽく書いてみますね。

 話題は、本を買うときの話。

 最近、というのには古い話題ですが、当初ホワイトハート文庫という女の子向けのラノベのレーベルでだされていた『十二国記』が、人気がでるに従って講談社文庫で再販されることになりました。
 このときになんとなく若かった僕は「うらぎられた! くそ、小野、おまえもか!?」と絶望したものです。

 が、この間とある女性に聞いたら、この一般文芸で再販する手法が「すごくいい!」とおっしゃっておりました。
 なるほど。たしかにラノベのレーベル、ややこゆい目の絵。毎日せっせと働くおじさまがたにはなかなかホワイトハート文庫の表紙はきついものがあるかもしれません。

 つまり、内容以前、ジャケットの問題というのがあるわけです。読む本の選択には、その本がどのような形で存在するのか、というバイアスがかかるのです。
 しかし、このバイアスがどのように働くのか、っていうのは興味深いところでありますが、よくわかっておりません。

 似たようなことでいえば、太宰治人間失格』の表紙を『DEATH NOTE』の作画家である小畑健が書いて大ヒット。七万部を超える売り上げがあった、というニュースも耳に新しいかもしれません。
 でもこれが太宰ファンが七万人居るということにはなりませんし、小畑ファンが七万人居るということにもならないでしょう。それでもジャケットの変更がとても効果的に売り上げに貢献、というか、読者を作品へ導くことがあります。

 そもそも、表紙を変えて売り出すという手法はずいぶんおこなわれおりました。漫画では新装版といったり、完全版といったりして再販し、活字の方では、単行本の文庫化が一番身近な例でしょうか。逆に桜庭一樹さんは『砂糖菓子の弾丸は撃ち抜けない』という作品を、文庫から単行本にして再販しました。

 これは、文庫から文庫、単行本へと移ったというよりも、ジャケットや表紙の絵による文化的指標が変更された。しかもまったく内容を変えずに行われたといえます。

 たとえば、今期(前期になるのかな)の角川の百冊には『涼宮ハルヒの憂鬱』と『彩雲国物語』が「これがラノベだ!」という帯で売り出されています。絵はそのまま。『ハルヒ』はいとうのいぢさん、『彩雲国』は由羅カイリさんですか。
 ラノベブーム、というのが本当にあるのかどうか知りませんが、これに乗っかってジャケットをめぐる一般文芸とライトノベルの価値変わりつつある現状はいえるかもしれません。「ライトノベル」というカテゴリーの価値が変化するということは、一般文芸への輸入という形で行われた『十二国記』や『砂糖菓子』はラノベ>一般文芸の枠組みが透けて見え、『人間失格』は漫画的表現と純文学*1とのコラボレーションが評価され、あるいは太宰の文学性が小畑の漫画表現によってい衰えるものではないことを示したといえます。
 しかし、こうした漫画/ラノベ/文学/SF/……というカテゴリーは増えるだけ増えていくのですが、このカテゴリーの境界線を越えるのは、それらのカテゴリーがそれぞれ脆弱化している時であろうということができるのではないでしょうか。

 あるいはポルノ小説のことを考えてみてもよいでしょう。サドや団鬼六の文学的価値について。その他有象無象のエロについて。
 あるいは、カテゴリーを巡る文化的状況について。これらのカテゴリーに対する変動と、そこにつけこむ隙と、同人誌ってものができるなにかについて。

 次回に続いたり、少し書き直したりするかも。

*1:という滑稽な言い方をお許しくださいな