マゾヒズム、何それ単なる変態でしょいやらしいと思う人にこそ読んでほしい『百舌谷さん逆上する』、における『春琴抄』の書き換えについて

【初めに】

 現在講談社月刊アフタヌーン」誌に連載されている『百舌谷さん逆上する』(篠房六郎著)の主人公は、名を「百舌谷 小音(もずや こと)」という。字は違えど、日本で一番有名な「もずやこと」といえば谷崎潤一郎著の『春琴抄』に出てくる主人公「春琴」こと「鵙屋 琴(もずや こと)」だろうと思っていたのだけれど、Googleで「もずやこと」で検索したら、上位10件のうち8件までが「百舌谷 小音」についてのものだった。まあ「琴」は作中でも圧倒的に「春琴」と呼ばれることの方が多いから一概に比べられないが、そんなものかなあ、と思う。

 それはさておき、読みが同じ名前を主人公につけるくらいなのだから『百舌谷さん逆上する』(以下「本作品」と略。)と『春琴抄』とは内容面でも何らかの関係があるのではないか、具体的には本作品のなかで『春琴抄』が何らかのかたちで書き換えられているのではないかと考えられる。以下そのような視点で本作品を見ていきたい。

 さて、本作品の単行本1巻の帯には

「べっ別に読んでくれなくていいんだからねっ!!!」、
ツンデレとはこういうことだっ!!」

という惹句が書かれているがこれらの言葉は本作品の内容をある程度は表していると同時に、本作品を手にとる者に誤った認識を与えかねない。先に挙げた言葉は既に世間にもだいぶ浸透した感がある言葉であるいわゆる「ツンデレ」がいかにも言いそうな台詞であるけれども、本作品における「ツンデレ」は、後に挙げた言葉がある程度は示しているように、世間一般で流通していると考えられる「ツンデレ」の意味、すなわち「普段はツンツンしてるけれど仲良くなってきたらデレッとして甘えてきてアキバ系の萌え」*1とはだいぶ異なるからである。

 すなわち、本作品においては「ツンデレ」とは「ヨーゼフ・ツンデレ博士型双極性パーソナリティ障害」という「病名」の「俗称」でありその症状は、

「誰かと仲良くしたいとか好きだと思った時に普通の人とは逆に攻撃的な言動や行動をとってしまうという症状が出てしかもそれを自分では抑えられなくなってしまう」*2

というものなのだ。まさに、世間一般で流通している「ツンデレ」とは好きな人間や仲良くしたい人間に対する態度という点で正反対、180度対極にあり、ツンデレに好意をもたれた人間からしてみれば、彼ら彼女らが攻撃的な言動や行動を好む場合を除き、とまどいや嫌悪感を覚える可能性が大きい状況である。

 といっても「小音」は決して暴力マシーンというわけではなく、自分に構わず無視してほしいことや、暴力的な行動をとっても必ずしも好意や愛情の裏返しではなくただ怒っている場合もあり喜怒哀楽の感情は普通の人間と変わりなくあることを、理性的にクラスメートに説明する力も持ち合わせている。

 単行本第1巻で彼女が吐く「皆さんには分かりますか 自分が今真剣に怒って訴えたい事があるのに皆が皆半笑いで誰も何もとりあってくれずあまつさえ『萌え』などと愚劣な言葉で道化のようにはやし立てられ嘲笑われる私の気持ちが」という言葉は、日常的に何気なく使われている「ツンデレ」という言葉自体に暴力性があることを読み手に知らしめさえするのだ。

 また、彼女は自分に好意を見せる者には下心があると常に疑っていて、自分が傷つかないよう、常に、世界や他人に対して「期待しない」ことを信条としているのだった。

【本作品の「番太郎」と『春琴抄』「佐助」の共通性】

 そんな「小音」が唯一ふつうに話すことができ、また、ある事件をきっかけに「忠実な下僕」としたのが同じクラスの「樺山番太郎」という裸の大将的風貌の少年である。彼はポジション的には、『春琴抄』における温井検校こと「温井 佐助(ぬくい さすけ)」、すなわち「春琴」に少年の頃から仕え「春琴」が顔に大火傷を負ったあと自分で目を突いて盲目になり実質上の夫婦となって添い遂げた男に相当する。

 好意を抱いた「竜田揚介」との悶着を経て「小音」はイソップ童話のいわゆる「キツネとすっぱいブドウの話」を、満ち足りた人間が「死にそうにお腹が減ってブドウにも手が届かない哀れで無力なキツネを見下して笑う底意地の悪いイヤな話よ」*3と斬り捨てる。

「キツネは自分が死にかけていて無力でどうしようもないのが分かっていて『どうせあのブドウはすっぱいに決まってる』って負け惜しみを自分の心の最後の支えにしてるのに その哀れなキツネの精一杯の無様な矜持を満ち足りた者がよってたかって笑うのよ」*4と「小音」が言うとき、そのキツネの姿は自分ではどうすることもできない障害たる病気を生まれつき抱える彼女自身の姿にオーバーラップする。

 そして、街で仲の良さそうな友達同士、親子連れ、カップルなどに対する思いや、もう一人の自分があがく自分を何をしても無駄だと嘲笑っていることを「小音」が「番太郎」に告白したあと、「番太郎」は彼女を絶対に笑わないと言い彼女が「揚介」と問題なくデートができるようにするための「事前の訓練」に付き合う。暴言を吐かれ、ボコボコにされたくさんの瘤を頭につくり目が埋もれて見えなくなるほど顔を腫れ上がらせ鼻血を流しながらも「番太郎」が「小音」に献身するさまには、『春琴抄』で「春琴」から何をされてもじっと耐えむしろ喜びをおぼえる「佐助」に相通じるマゾヒズム、すなわち他者から苦痛を受けることによって満足を得る被虐指向が感じられる。

マゾヒズムの内容、及び途中から大きく分かれる「番太郎」と「佐助」の道】

 けれども、「番太郎」と「佐助」の「マゾヒズム」がまったく重なるものかというとそうは思えない。二人の行動は、途中からは大きな違いを見せるようになる。

 ここで前提として「勘違いしないでよね!」と私自身が言いたくなるのは、まず、マゾヒズムというものが他者から際限なき苦痛を与えられることを望み、受け入れるものではないということだ。そのことは以下のジョン・K・ノイズによる言葉に端的に示されている。

「マゾヒストが求めるのは、殴られ侮辱される空想を演じることができる、コントロールされたシナリオである。これは、当てもなくぶらついているうちに危険な状況へ踏み入ってしまうというのとは、ずいぶん違う。マゾヒストは、殴る人物が、ゲームのルールを心得ていること、止め時を心得ていることを確かめる。」*5

「われわれの文化において、殴られようと頬を差し出すマゾヒストが想定されるときは常に、相応しい人物によって相応しい舞台設定で殴られるということが絶対に必要不可欠な前提であった。」*6

 また、レオポルト・フォン・ザッヘル=マゾッホの『毛皮を着たヴィーナス』においても「契約」という言葉で代表的に象徴されている。

春琴抄』の「佐助」についてもこのことは当てはまる。
「佐助」は「春琴」に侮蔑された弟子で雑穀商のボンボンの「利太郎」だと推定されるけれども他の者の可能性も示唆されている何者かの犯行によって「春琴」が顔に大火傷を負い容貌を損なうと、自分の目を針で突いて盲人になってしまう。

 そして「春琴」も「今の姿を外の人には見られてもお前にだけは見られとうないそれをようこそ察してくれました*7」と喜んだとあるのだが、「春琴」が喜んだというのは、彼女の死後十数年を経て「佐助」が側近者に語ったことに過ぎない。「佐助」がほとんどの材料を供して作らせた「鵙屋春琴伝」では、春琴の火傷は軽微で、「佐助」も偶然白内障で失明したことになっているがこれが虚偽記載だと推測されるため、「春琴」の喜びというのも真実かどうかは定かではない。
 むしろ、単に「佐助」にとって都合が良い解釈である余地を巧妙に残している。


 さらに追い打ちのように、後年「春琴」が「佐助」との正式な結婚を望むも「佐助」が拒んだ事実が紹介される。
「佐助はそう云う春琴を見るのが悲しかった、哀れな女気の毒な女としての春琴を考えることが出来なかったと云う畢竟めしいの佐助は現実に眼を閉じ永劫不変の観念境へ飛躍したのである彼の視野には過去の記憶の世界だけがあるもし春琴が災禍のため性格を変えてしまったとしたらそう云う人間はもう春琴ではない彼は何処までも過去の驕慢な春琴を考えるそうでなければ今も彼が見ているところの美貌の春琴が破壊される」*8、「佐助は現実の春琴を以て観念の春琴を喚び起す媒介とした」*9といった記述からは、現実の相手の立場や感情などまったく考慮しない冷酷さが濃厚に感じられる。


 つまり、マゾヒズムといっても「佐助」が望んだのは「美しく驕慢な春琴」に虐待されるという「舞台設定」で初めて成立するものであり、「春琴」が「美しくなくなった」時点で被虐に甘んじられなくなる、あるいは甘んじることを自らやめてしまう、非常にエゴイスティックなものなのだ。

 また、相手が自分の理想から外れてしまったら自分の目をつぶして「見ないことにする」というのは、例えば、「コスプレ(コスチューム・プレイ:アニメ等のキャラクターの扮装をする)イベントで、自分の目当てのキャラクターのコスプレをしている人間の容貌が自分好みでないことに怒って自分のカメラを叩き壊す」行為や、「イメクラ(イメージ・クラブ:店員が看護師、セーラー服の学生、キャラクター等の扮装で性的サービスを含むサービスを提供する風俗営業店。行ったことないけど)で指名した相手が自分の予想を下回る者だったので直ちに被指名者の交代を要求したり金返せと怒って店を出てくる」行為と大して変わらないように私には思える。
 すなわち、谷崎潤一郎の描いている「マゾヒズム」は、「コスプレ」や「イメクラプレイ」に近いという意味でも、相手と感情の交流を図るというよりは、「自分の理想世界を壊さず保つ」ために存在する、劇場的で実は上から目線の傲慢なものだと考えられるのだ。

 谷崎潤一郎が、松子夫人が老いてからは義理の娘である渡辺千萬子をミューズ扱いしていたように、「佐助」も、「春琴」が年を取っていくとともに聴覚・触覚的にもの足りなくなってくる部分については、「春琴」亡き後もしばらく世話をしてもらい自身を敬称で呼ばせず「佐助さん」と呼ばせていた娘のように年下の内弟子「鴫沢てる女(しぎさわ てるじょ)」を理想の姿としての「春琴」を想像するための補完材料としていたのではないかという穿った見方の妄想までしてしまう。

 もちろん、マゾヒストと相手との「契約」の成立条件として「契約の相手が美しいこと」が挙げられても不自然ではない。不自然ではないけれど、そこで相手に注がれる視線とは、全人格的な尊敬とか愛情とかいうよりは「条件を成り立たせる要素の集合としての人間」に対するフェティシズムに近く、相手を「一人の主体」として見るよりはやはり「物」として見ているように思える。相手が本当に心から納得していたのかもわからない。
「春琴」の内面が直接的にはほとんど描かれていないこともあって、私の場合『春琴抄』の読後感には、これは恋愛というよりは利己的な理想押しつけ物語だろうという残念さ、寂しさがつきまとう。

 また、この残念さを覆してくれるような、「佐助」が全人格的にまるごとありのまま「春琴」を愛し、彼女の顔が醜く変形しても以前と変わらず目を開けて彼女を受けとめていくというマゾヒズムというものはありえないのだろうか、という疑問も期待とともに残るのだ。


 一方、本作品(『百舌谷さん逆上する』)では、途中から「番太郎」は大きく変わっていく。

 まず、奉公に上ってからは実の家族と縁が切れたに等しい「佐助」とちがい「番太郎」には病気でずっと入院している「勇次郎」という弟がいて、彼はこの弟を非常にかわいがっている。

 そして「番太郎」が山荘で餌付けしたフェネックギツネの「ネギー」が目の前で車に轢かれて瀕死状態になったとき、「小音」は夢中で「ネギー」を抱えて走り命を助けようとするのだが、そこに現れた「番太郎」は「裸の大将」から「『ゴルゴ13』のデューク東郷」的風貌に変わっており、筋肉や眉毛の描写も鋭角や陰影が誇張されたいわゆるマッチョな感じになり彼女らを邪魔する者と闘う。

「ネギー」の件に区切りがつき、「勇次郎」を救うために「番太郎」ができもしない金稼ぎをしようとしたことを笑うと、「番太郎」は我慢して頑張っている自分をなぜ笑うのかと初めて彼女に反論し、笑うな、と地団太を踏みながら叫ぶのだった。対して「小音」は「前から気にくわなかったのよ貴方のその中途半端なヒーロー面 ずっと黙って人に真心から尽くしてるフリなんかして結局誰よりも人に認められ慰められて褒めてほしかっただけなのよ*10」と喝破する。


「番太郎」は激しく泣いたあと、「小音」が言っていた面が自分にあったかもしれないことや、本当はずっと「小音」を見下していたかもしれないことを認め、まだ一人前のドMではないのだ、と真のドMについて「勇次郎」に語る。『春琴抄』の「佐助」には決してあり得ない重要な「覚醒」だ。

 彼はドMを「絶望に沈むたった一人(ママ)誰かの下の方へと回り込み ただひたすらに踏んづけられる*11」役に立たぬものと表現し、水たまりに敷いたボロゾーキンや漫画『はだしのゲン』で非国民と罵られながらも反戦を唱え続けた「ゲンの父親」まで比喩的に持ち出して

「ドMは誰かを見上げさせる事は出来ない しかし 誰かの落とした絶望の影で(ママ)の下で 共に佇む事は出来る*12

ということを含む、スーパーヒーローたるドMにできないこと・できることを述べ、真のドMになりたいと拳を胸に当てる。ここの台詞は、見返りを一切期待しない覚悟を決めた上で自分にできることを客観的に見つめた大変印象的な台詞だ。

 マゾヒストが、マゾヒズムが成立する条件を設定する段階が重要なのであり、そこで相手の立場や感情を充分考慮することも可能なのだと示しているようでもあり、『春琴抄』の書き換えという点から見ても、今の段階ではベストの箇所だと私は考える。

 彼が言う、世間一般的なスーパーヒーロー像に対するアンチテーゼたるスーパーヒーロードM像は、社会がどのように世間一般的なヒーロー像を規定するかによっても違ってくるだろうが、「他人への奉仕や他人に対する共感を重視する」という点では、学校で道徳の時間に教えられることや法を遵守する社会で生きる上で求められることと重なることも、特筆に値すると思う。

<「○太郎」と「○次郎」>といえば本作品のこの樺山兄弟のほかに<都知事と俳優の石原兄弟>が思い浮かぶため、石原兄弟と樺山兄弟を対比させ、自身の欲望を 満足させるような見返りをまったく求めないという自覚がなければいくらマゾヒストを自認していても名前の似ているマッチョな人間と同じなんですよ、と上述のドMに係る台詞を通して 作者が暗示している ようにも思える。

 また、いわゆる「ツンデレ」の人間が自分に対してだけは「デレる」という「見返り」を期待し自分を特別な人間だと思おうとしている人々に、「都合のいい解釈ではたちゆかない事態」をどう受け止めどのように行動するかこそが問題なのだという批判を突きつけているようにも見える。

【「小音」自身の内面も描かれる本作品】

 本作品では、『春琴抄』と異なり「小音」の内面も詳しく描かれている。
「小音」は、自分との約束よりも弟の見舞いを優先する「番太郎」にショックを受け、変装し性格も違う別人になりすまして「勇次郎」と知り合い、接近する。
 怯えて人の機嫌を取る彼の態度にイラつきながらも、「番太郎」に対してとは違い、彼女は暴力的な言動や行動には出ないで、すなわちツンデレの発作を起こさずに対応できるのだった。

 また、「小音」は自分の「勇次郎」に対する態度や、面白半分で始めた「番太郎を好きな理由」の会話にいつのまにか真剣になってしまっている自分自身に動揺し自分なりの解釈をして気持ちを鎮めようとするが、彼女が「嘘」と考えて発言している言葉こそが私には真実に見え、自分自身でも気づかぬうちに彼女が「番太郎」が愛しているものを自分も愛したいと願い、努力しているようにさえ思える。

 もっともこれは彼女が「早川贄子」という別人としてふるまっているからで、「百舌谷小音」として同様の対応をとりうるのは傷ついて瀕死の小動物に対してのみである。この点も「春琴」が美しく囀る鶯を愛でていたのと対照的だ。

 また、この辺りには「小音」が「番太郎」ほか周りの人間たちがどんなに好意を表しても、心のなかでは彼らが口で言うあるいは行為で示すように思っていないに違いない、自分より弱いものを見下して都合良くコントロールしようとしているだけなのだという猜疑心にとらわれるさまが繰り返し描かれている。まるで、「ヨーゼフ・ツンデレ博士型双極性パーソナリティ障害」の本質が猜疑心にあるとでもいうかのようだ。

 さらに、夢のなかで彼女はある人物から、身を守り生き延びるための助言を得るのだが、その言葉からは、「小音」が自分の意志でコントロールしがたく治癒する方法もない行動や言動すなわち「症状」について抱いている自責の念と深い絶望、自分自身の存在を受け容れられず許せないでいることが窺える。また、「小音」自身が好意を持っている相手を傷付けないように相手との距離を深めないため、かつ彼らとの関係が崩壊したときに自分の心が壊れないようにするために無意識に「猜疑心」を盾やブレーキとして用い自身の気持ちに自ら留保をつけているとも考えられる。

 なお、たとえ「小音」が「外国人の血を引いていてツインテール」という、いわゆる「ツンデレ」キャラクターにありがちな「お約束」ともいえる風貌をしていて、言動等が表面的にはアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」の「惣流・アスカ・ラングレー」に似ているとしても、「アスカ」が過去に母の愛を得たくても得られなかったことがトラウマであるのに対し、「小音」は現時点で誰かに愛されれば愛されるほど自分自身への恐怖や自責の念がつのりより深い絶望に陥るという点では、両者は対照的である。

【問題の普遍性】

 本作品における「ツンデレ」ほどではないにしても、好きな/嫌いな相手に対して自分の気持ちとズレがある行動をとることや、相手が自分に対して好意を示す言動や行動に対し本心はいったいどのようなものなのかと疑い・考え・ストレートには言動や行動を受け止められないということは、さほど珍しいことではないのではなかろうか。そのような行動・言動・考え方の特性をもつ自身をどう受け容れコントロールし、かつ、相手の行動や言動をどのように受け止め対応していくのかという観点から見てみれば、小音の抱える問題はたいへん普遍的な面を持つといえる。

【最後に】

 以上のように本作品は『春琴抄』を踏まえながらも、『春琴抄』には見られない要素をいろいろと付加して話を書き換え、展開している漫画だと考える。台詞などの情報量が多く圧倒されて疲れることもあるが、読み応えはある。

 本作品は現在、「小音」の養父・養母や実の祖父「鴫沢大観」の過去のエピソードに突入している。本稿では割愛したが、「勇次郎」担当の看護師コンビ「珠美」と「先輩」も「小音」と「番太郎」が変わっていく契機を提供するなど魅力的なキャラクターである。

 本作品が『春琴抄』の書き換えであると考えられる以上、「春琴」の顔の大火傷&「佐助」の自発的失明に匹敵するような出来事を避けて通ることはできないだろう。今の流れで行くと、いずれ「小音」は自分を「全身(もちろん顔も)血みどろで傷だらけの瀕死状態」に変形するまで追い詰め、自分をつくり産んだ本当の血縁者への復讐をすることも予想される。そのときに「番太郎」が何を思いどのような行動をとるのか、また、彼の言動や行動を受けて「小音」にどんな気持ちや言動・行動の変化が起こるのか起こらないのか、「小音」の猜疑心が彼女を苦しめなくなる日が来ることを願いつつ、今後も読み続けたい。 了

*1:アフタヌーンKC百舌谷さん逆上する』第1巻(2008年6月 講談社

*2:同上

*3:同上

*4:同上

*5:マゾヒズムの発明』(ジョン・K・ノイズ著 岸田秀加藤健司訳 2002年1月 青土社)p.12

*6:同上

*7:新潮文庫春琴抄』(谷崎潤一郎著 1951年1月 新潮社)p.67

*8:同上p.70

*9:同上p.70

*10:月刊アフタヌーン2009年3月号」(講談社)p.186

*11:月刊アフタヌーン2009年3月号」(講談社)p.201

*12:月刊アフタヌーン2009年3月号」(講談社)p.202